【前回の記事を読む】「大丈夫、今日はきっと眠れるはず」胸の重圧感と息苦しさを感じた不眠の日々

夜明け

これまでの生き方の「ツケ」を清算する、それには気が遠くなるほどの長い時間と(くじ)けぬ覚悟が必要な気がする。考えるだけで心が折れそうになる。けれどこの現実は泣こうが(わめ)こうが受け入れていくしか仕方がないことだ。  

ならば、まず、この現実をどんな心根で受け入れれば良いのか、そしてこれから先、この現実にどう対応していけば良いのか、腰を据えて考えることにした。

考える毎日の中で、ある日、新聞の文庫本の広告欄が目に入った。そして、一つの言葉が衝撃的に目に飛び込んできた。

「食えなんだら食うな」

遠い昔、この本のこのフレーズに震えるほどの強い衝撃を受けた。以来、この言葉はいつも私の心のどこかに座右の銘として存在する言葉の一つだ。

曹洞宗大教師の関大徹氏から発せられたこのフレーズを初めて書店で見掛けた時、私はまるで脳髄に楔を打ち込まれたような痛みに似た衝撃を受けたことを覚えている。

人間の生存本能ともいえる3大生理的欲求の一つである「食欲」について「食えなんだら食うな」そう言い放つことができる、そのことに強烈な畏怖の念と憧れを抱いた。人知を超えたはるかな高みから自分を俯瞰して、さらりと淡々と、生きる本能でさえも一刀両断に断ち切れと言い放つことができる、桁外れの強靭な精神力に鳥肌が立った。 

厳しい禅宗の修行を極め、悟りを開いた関和尚だからこそ言える言葉である。この世に生を受けた者としてどう生きるのか、人生の窮地に立った今、改めて、この言葉が私自身に投げ掛けられたような気がした。

そうだ。「寝れなんだら寝るな」だ。焦らなくていい。どっしりと眠れぬ夜を「今の自分の生き方」として受け入れたらいいのだ。

眠れなくてもいいんだ。焦らなくていい。そう思うと気持ちが軽くなった気がする。受け入れる心根はこれで良いのかもしれないと思えた。