第一部 日本とアメリカ対立—

第一章 日本行き、そして帰国

運命のいたずら

資質については我輩が持つ五感の内、聴覚と嗅覚と視覚は人間種族の比ではない。

何しろ音は人間種族より約二倍半高い音域まで、距離では約四倍遠く離れたところまで聴き取れる。しかも一度聞いたら忘れないので言語の習得も滅法早い。

嗅覚の鋭さとなると、単に薬物や人間の匂いだけでなく相手の心の内まで素早く察知できる。このため忖度技術は官僚以上に高度に発達した。

また視覚も優れていて遠く離れたところからでも読唇術で容易に相手の発言も理解できる。こう言えば良いことだらけに聞こえるが、世の中何事も度が過ぎるのは宜しくない。正直言って結構疲れる。これも人間種族には理解してもらえない苦しみだ。

趣味は近所のチャイナ・タウンに住んでいた中国人の画家に師事して嶺南派の水墨画を嗜み、霧や靄にかすむ深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)の相を得意とする。

言語は柴犬種族の間では通常ワン語だが、人間種族と話す時は英語か日本語で話す。

後年日本に移り住んだ際、日本語と漢字の検定試験は難なくパスした。ところが目をつむって受けても易々とパスすると思っていた英検1級には何と不合格。これにはかなりショックを受け、一発でパスした飼い主のお嬢さんに聞いたら、

「日本の試験は陰険で意地悪な問題が多いからナイーヴなケンには厳しいかもね……」

とつれない返事。

一年後再挑戦。試験当日したたかにバーボンを飲んで酔いに任せて受験したら、酔いが効いたのか無事にパスして面子を保った。以来バーボンを手放さないことにしている。

唯一苦労したのは日本語のイントネーションだ。日本語には英語と異なり強弱のアクセントが無い代わりに高低のアクセントがある。ハシと言っても箸、橋、端のいずれかは音の高低で判断する。一体誰がそう決めたのか恨みたくなる。

また我輩の舌は人間種族の舌より長い。このため正しく発音しているつもりでも、一語一語が間延びしたり、巻き舌になったりして何とも締まりが無い。

「まるで米国南部の英語訛り(a Southern drawl)みたいな日本語だ」

と周囲からからかわれて何度も恥ずかしい思いをした。しかしこればかりは今更どうにもならない。