【前回の記事を読む】今でこそ日本のTOP大学だけど…成立期の東大を取り巻いた複雑な事情とは?

第一章 日本近代文学の出発点に存在した学校と学歴――東京大学卒の坪内逍遙と東京外国語学校中退の二葉亭四迷

第一節 坪内逍遙

■明治初期における「東京大学」の位置づけ

逍遙が東京開成学校に入ったのは明治九年の九月ですから(その頃は今と異なり学校の新学年開始は秋でした)、開成学校が東京開成学校となり、明確に高等教育機関となった二年後ということになります。

当時の東京開成学校は普通科三年、それを修了してから本科三年という、計六年制をとっていました。教室での使用言語は英語でした。近代化に必要な知識や学問の記された日本語の教科書はまだ存在していなかったからです。

ところが、逍遙が入学してわずか半年後の明治一〇年(一八七七年)四月、東京開成学校は東京医学校(先に述べた大学東校が改称した学校)と合併して、東京大学と改称するに至ります。従来の東京開成学校の学科から理、法、文の三学部が作られ、東京医学校からは医学部が作られました。ここに初めて「東京大学」という名称の学校が成立したわけです。

そして全国の大学区に設けられていた英語学校(逍遙は名古屋の英語学校を出たわけです)は廃止され、東京のそれ(東京英語学校)は大学予備門、つまり東京大学に入るための予科とされました。東京大学は四年制、大学予備門も四年制(のち三年制)とされました。

さて、東京大学が成立したとき、逍遙は東京開成学校の普通科一年に入って半年だったわけです。本来なら普通科三年を経てから本科で三年間学ぶはずでした。新しくできた東京大学は四年制なので、東京開成学校の本科三年分と普通科の最終学年一年分を合わせた形となります。なので、普通科に入って半年の逍遙は予備門の学生ということになりました。

そして明治一一年(一八七八年)九月、東京大学の文学部に進学します。ただし、当時の文学部は今とは違い、文学や哲学や歴史だけではなく、政治学や経済学を学ぶところでもありました。そして実は政治や経済を専攻する学生のほうが多数だったのです。逍遙も文学部の政治科に在籍しています。けれどもそこで外国人の教員から西洋文学をも教わり、卒業後もその方面の仕事をすることになるのです。

ちなみに東京大学に進学する直前の夏休み、逍遙は名古屋の実家に里帰りしていますが、海路をとっています。東京と名古屋が鉄道(現在の東海道線)で結ばれるのは明治二〇年代に入ってからのこと。明治一〇年頃の日本がまだまだ近代化の途上にあったことがお分かりいただけるでしょう。