「あとは任せたぞ」

と、田島も笑顔で、手にしている軍刀を村中中尉に差し出した。

「任せておけ『夜目遠目傘(よめとおめかさ)の内(うち)』だ。それに、このエサには間違いなく喰いついてくるだろう……それじゃあ、これは預かっておく」

「いや、さっきもいったように、結果はどうあれ、晴れて戦地へ行くことのない私には、もはや無用の長物だ。天下無双の名刀というほどではないが、棄てるには惜しい『備前』の逸品だ。遠慮なく受け取ってくれ」

「そうか。それじゃあ遠慮なく頂戴しておくが、この長いやつを使いこなすには『居合い』の稽古にも本気で精をださねばならんな。

しかし、できればまた一杯やりながらバカ話でもしたいところだが、たとえそれが叶わなくても、その前にもう一度、電話でもいいから声ぐらいは聞かせてくれよ。

如何(いか)に天から降って湧いたような急な話とはいえ、星も見えないこんな地底のような荒寺の境内で今生(こんじょう)の別れというのでは、涙も出ないからな」

「なあに『人間到るところ青山(せいざん)あり』だ。だが、さっき話したとおり、私は本当は臆病な人間なんだ。そう簡単には死なないさ」

「そうか。それじゃあそれを信じて、再会を楽しみに待っているぞ」

と村中中尉は笑い、受け取った軍刀を右手に山門を出た。

およそ十五分後。 田島中尉は麻布の歩兵第一連隊、通称「歩一(ほいち)」の営門の前で、四谷の表通りで拾って乗ってきた円タクを乗り捨てた。

目の前を青山(あおやま)方面からやってきた市電が、車窓から溢れる灯をまき散らし、巨体をもてあましているようにゴトゴト身震いしながら通り過ぎていった。

色褪せたハンチングやソフト帽を被った男たちが、一日の勤めで精も根も使い果たしてしまったような、血の気のないくすんだ顔を並べ、放心したような虚ろな眼を窓の外に向けて吊り革にぶらさがっていた。

田島中尉を落とした円タクは、その鼻先を掠めるように走り去っていった。

田島は振り返り、追尾してきた車がいないことをもう一度たしかめた。

村中中尉のお供をしている二人は新宿の盛り場を巡っている、否、今頃はもう街角の電信柱か郵便ポストでも蹴とばして悔しがっているかもしれないが、そんな姑(こそく)な小細工を弄したのも我が身のためではなかっただけに、子供の「鬼ごっこ」のような他愛無いことと思いながらも、心地よい苦笑がこぼれた。

夕食後のひと時を連隊本部の将校室で週番将校たちと談笑していた歩一の週番司令、いわゆる「夜の連隊長」の山内(やまうち)俊一大尉は、田島中尉の突然の訪問に、

「お、どうしたんだ。何か忘れ物でも取りに戻ったのかな?」

と、冗談をいいながらも驚きを隠さなかった。

が、田島の顔色を見てそれ以上は何も訊かず、

「久々に自慢のコーヒーをご馳走しよう」

と、彼を隣の週番司令室へ誘い、部屋の片隅に置いてある予備の椅子の一つを、自分の机の正面に自らはこぶと、

「シッダン・プリーズ」

と、笑顔ですすめると、隣室に控えている週番司令付の当番兵を呼んで、コーヒーを淹(い)れるよういいつけた。

山内大尉は、週番勤務の週には、年々熾烈(しれつ)になる先進列強国の、覇権争いの陰謀渦巻く国際都市《上海(シャンハイ)》から取り寄せた自前のコーヒーや、アメリカ製のサイホン、さらに今では海外でも高い評価をえている《則武(のりたけ)》のカップまで持参していたが、その淹れ方、扱い方は当番兵にも教えてあった。

田島は脱いだマントと帽子、それにサーベルを戸口の隅に立ててある剣帽掛に掛けると、大尉のすすめてくれた椅子に腰をおろした。

その時、部屋の柱時計が八時の鐘を打ちはじめた。

田島は腕時計を見た。

今朝神戸港に着いたときに時刻を合わせてきたが、メイド・イン・ジャパンの悲しさ、また四分遅れていた。俸給八十円そこそこの、喰うのもやっとの「やっとこ中尉」ごときには、スイスやベルギー製の舶来品は高嶺(たかね)の花だった。

「それで、何時(いつ)帰ったのかな?」

山内大尉も自分の席に腰を下ろし、田島が顔を上げるのを待っていたかのように訊いた。

むろん、田島の帰校予定日を知らぬはずはなかったが、問い質(ただ)すというより、世間話でもするような穏やかな口調だった。

「今朝、神戸に着きました」

「すると、まっすぐ東京に戻ったというわけか」

「は、陸士へちょっと顔を出して挨拶だけしてきましたが、お断りもなく突然お訪ねして、ご迷惑ではなかったでしょうか?」

「なあに、『朋(とも)あり遠方より来る』だ。そうだろう、きみはまだ遥か三千里彼方の満州の荒野にいるはずだし、士候等が帰校したという話も聞いてないからね。

ああ、士候といえば、三、四日前に歩三(ほさん)の安藤くんが来てね、士候等が最近、古賀中尉や中村中尉といった『海』の同志等と頻繁に会っているらしいんだが、ほっておくと今にも暴発しかねない不穏な気配だから、早急に何か手を打ったほうがいいのじゃないかと心配していたよ。ひょっとすると、きみもそれで帰ってきたのかな?」

図星だった。

※本記事は、2019年4月刊行の書籍『泣いてチャップリン』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。