奥会津の人魚姫

長い夜の幕開けだった。もともと酒はあまり強くない鍛冶内と、末期ガンのせいで医者に酒を止められている千景は、飲んでいるとはとてもいえないほどわずかな日本酒、地元産の吟醸酒を酌み交わしながら、話の先を急いだ。千景の話は10年少し前に、ここ奥会津の長山町に遊びに来た時の昔話から始まった。

駅のポスターで奥会津の風景写真を見た千景は、その素朴でまっすぐな味わいに感動を覚え、日常からの束の間の脱出も兼ねて、カメラ一つ鞄に入れて長山町の温泉宿を訪れた。

さびれた街並みを抜けて、町の外れまで歩くと、予約を入れていためぶき屋の藁葺き屋根が遠くにかすかに見えた。

「いらっしゃいませ」

人の良さがにじみ出るような、柔和な笑顔で出迎えてくれた女将は、千景もびっくりするほどの色白の美人だった。

それから数日間の記憶は、正直今の千景にはない。契約しているスタジオはあるものの、フリーランスである特権を最大限に活かして、千景のめぶき屋での逗留は2週間の長きに及んだ。

何が千景をこの宿に引き留めていたのかは、今でもよくわからない。只見川のゆったりと流れる悠久の渦が本人の波長に妙に合致していたためかもしれないし、夜ごと布団の際まで聞こえてくる虫やカエルの鳴き声が、東京で生まれ育った30代半ばの男にはいたって新鮮に聞こえたせいかもしれない。あるいは毎食違う山菜料理を出してくれる不思議な女将のことを、只見線の列車をファインダー越しに覗きながらあれこれ考えるのが楽しかったためかもしれない。

何はともあれ、そうこうしているうちに2週間後に宿を離れる頃には、結局のところ千景は女将である咲也子とは互いに将来を誓い合う仲になっていた。