成長という木

「お、ぼーい、お、ぼーい」

英語教師の松崎はいつもそうつぶやきながら一年B組の教室に入ってくる。純太の席は教壇への出入り口の傍にあり、松崎の声がかすかに聞こえる。意味は不明だ。

松崎が教室に入ってきても、生徒たちの勝手なおしゃべりは止まらない。だらだらと立ち上がって授業開始の礼をする。

松崎は43歳。独身。中肉中背。少し後頭部が薄くなりかかっている。いつも同じような色の背広でネクタイは使い過ぎてよれよれだ。服装には無頓着のようだ。

女の人とトラブって、謹慎処分を受けて、そして勤めていた他の公立高校から異動してきた。という噂がある。そういった噂のせいか、女子には敬遠される存在だが、男子は気にしない。と言うより、笑いのネタにされている。

都立西泉高校(N高)は偏差値にすれば中位のレベルである。松崎はそれよりかなり高い偏差値の高校からの異動だ。前に赴任していた高校の生徒より反応の薄い生徒たちの為に頑張っている。

松崎は教壇に立ち、机の上に教科書を置く。出席表に目を落とし、出席を取る。

親父ジョークも軽いご機嫌伺いもなく、直ぐに教科書を手にして授業に入るタイプの教師だが、今日は違った。

「今日は六月二日か。本能寺の変が起こった日だな」と言った。生徒たちは互いの顔を見合った。英語と日本歴史の取り合わせが可笑しかった。何だかしっくりこないから生徒たちがまた笑いのネタにしようと、松崎の次に出てくる言葉を待っていた。

松崎は生徒たちのそんな様子を敏感に感じ取って、黙った。そして何事もなかったかのように授業を始めた。

「open the book page45, lesson4」と、いつもの授業が始まった。

松崎が指さした席から順番に後ろへと段落ごとに文章を読んで、訳していく。終わると「next」と言う。

「next」

純太の番になって何度か発音を直されながらも文章を訳し終わり、席に着こうとしたら見事に床に尻もちをついた。

後ろの席の三上アキラの長い脚が純太の椅子を軽く後ろに引いたからだ。その拍子に椅子と尻との距離のバランスが崩れた。結構大きな音を立て後ろに大きく転倒したのだ。ちょっと間があって待っていましたとばかりに気楽な笑い声にあふれた。

直ぐに体勢を立て直す為、尻もちをついた拍子に掴んで曲がった机を元に戻し、倒れた椅子を元に戻し、最後に片手を頭の上にかざし「てへ」と笑った。それはお決まりの恥ずかしさをごまかす為のルーティンだった。

前の席にいる星野綾乃は何事もなかったように、じっと前を向いたままで、自分の髪の毛が乱れてないか両手でなでつけていた。肩まで伸びたストレートの髪が左右に揺れた。

松崎は授業の進行の妨げになったからといって無駄な詮索はしない。些細ないざこざは無視する事にしたようでチラリとも純太の方に目を向けなかった。

教室の中で笑っていなかったのは綾乃と松崎だけだった。

松崎は純太の事を気遣う事もなく、アキラのした事を注意する事もなく「next」と言った。その声に、アキラは立ち上がり完璧な発音で文章を読んだ。松崎は満足そうに頷いた。

「お、ぼーい」

純太が小さな声で松崎の口癖を言った。傍に立っていた松崎は、それが聞こえたようで、小さく肩をすくめてニヤリと笑った。使い方は間違っていないようだ。

松崎が歴史に詳しいとは知らなかった。今日は主君織田信長からのいじめが発端ともされている明智光秀の謀反が起こった日であると、「本能寺の変」を唐突に言った松崎が何を言いたかったのか今となっては分からない。教師を馬鹿にする生徒たちに、教師はいつだって反撃できる立場であると言いたかったのか。

Oh-boy! やれやれ! 何てこった! これから何が始まるんだ! と松崎は教室に入るたびにつぶやくしかない。