この「古いタイプの干支紀年法」については、既に拙著『邪馬臺国と神武天皇』(幻冬舎2022年)において指摘し、「旧干支紀年法」と呼んだものである。

この「旧干支紀年法」は、天武朝ごろまで(正確には持統4年紀・690年まで)、我が国で公用されていた干支紀年法であり、当初はこの「旧干支紀年法」による編年国史(旧日本紀)が作られたのであって、書紀はこれを編み直し、あたかも最初から現行干支紀年法であったかの如くに装ったため、さまざまな不具合を抱え込むことになったのである。

実は既に拙著『日本書紀編年批判試論』(東京図書出版2011年)でこのことを証明しつつ舒明天皇末年紀以降の編年の修正について縷々論じたのであったが、若干の誤謬や不十分性があった。そこで以下の拙稿は、この旧著を修正し補足し再論しようとするものである。

古くは「旧干支紀年法」が公用とされていたという驚くべき事実に気付かれる時、1年繰り下げるべき書紀記事は、述べたような個々の事例を越えて、一挙に爆増する。1300年以上も昔の話であれば、僅か1年の違いは大した相違ではないと考えられるかもしれない。

しかし、事件の経緯を継時的に考察してそれぞれの事件の意義を考えようとするのが歴史学の基本的な研究目的の一つであるとすれば、その継時的経過が1年狂っていると、それぞれの事件の意義について全く誤った考察に導かれてしまう可能性が生じる。

史実に比較的忠実な編年がなされていると考えられる部分においてそのようであると、その編年を信じつつ考察を進めようとする歴史学にとって、これはかなり致命的なことになる。

蛇足ながら卑近な譬え話を一つしてみよう。ある密室で殺人事件が起こり、その密室への入り口を24時間記録していた監視カメラの映像が残っていたとしよう。検死によって殺害推定時刻が明らかとなり、監視カメラの映像によって、真犯人が特定されたとしよう。

ところが、監視カメラの記録する日時が丸1日ズレていることが後に判明したとする。真犯人とされた人物は冤罪となり、真犯人の捜索は後手に回り、終に事件は迷宮入りになったとしよう。監視カメラの僅か1日のズレが、罪無き人を罪に陥れたことになり、事件の真相を永遠の迷宮へと案内したことになる。

監視カメラを干支カメラに置き換え、1日のズレを1年のズレに読み替えれば、事の重大さはおのずと明らかであろう。1年のズレが、罪無きものにあらぬ嫌疑を掛けることになった事例、事の真相を見えなくしてしまっている事例が、多々存在する。

※本記事は、2021年12月刊行の書籍『6~7世紀の日本書紀編年の修正』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。