朝比奈隆さんというと、私には二つの珍しい記憶が甦ってくる。

一つは、もう古い記憶で、場所もどこのオーケストラだったかも定かでないが、ある演奏会で、客席が満員になり、両脇の通路が補助席で一杯になったことがある。既にライトが消えた演奏直前の会場は、咳払い一つする人もなく、シーンと静まり返っていた。指揮台に立った朝比奈さんが最初のタクトを振り上げた瞬間、補助席の椅子がバタンと物凄い音を立てて倒れたのである。

並みいる聴衆は、一瞬両手で自分の耳を塞いだに違いない。私の心臓も数秒間停止したようであった。倒れた椅子の音がいつまでも鼓膜の奥に響いていた。物凄い形相で振り向いた朝比奈さんは、音のした方角をギッと睨み据えたものである。もう一度やり直しである。練習ではしょっちゅうだろうが、本番でのやり直しは、氏にとっては初めての経験だったろうと思われる。

もう一つは、今から数年前、滋賀県のある市民ホールでの出来事で、当日は、大阪フィルハーモニー交響楽団を率いての演奏会があった日である。

私は、早速チケットを買い求め、当日、嬉々として出掛けて行った。やがてプログラムも進み、あるピアノ協奏曲の演奏の最中、独奏者とオーケストラの合奏がまさに最高潮に達したその時、突如館内全域に非常ベルがけたたましく鳴り響いたのである。

今鳴り終わるか、今止むか、いったい何が起こったのか、聴衆は固唾を呑んで待っていた。その間、演奏は、ベルに反抗するかのように容赦なく続けられた。全く居た堪れない気持であった。計った人がいたわけではないが、果たして何分鳴り響いていたのだろうか。非常に長く感じたものである。

朝比奈さんも自分の長い指揮者生活の中で、こんな経験は初めてだったと思われる。クラシック音楽会の場合、演奏中は特に静謐が求められ、その静寂の中で名曲に浸るのである。終われば拍手が求められ、いや、求められるのではなく、必然的に沸き起こるのである。

近頃、時には演奏中に飲食したり、小声で雑談したりする人もいるが、演奏者や他の客に対して失礼であろう。その日、演奏会が終わって帰り際、来客に対し

「本日は大変ご迷惑をおかけしました」

とのお詫びの場内アナウンスがあった。残念ながら、その原因の説明はなかったが、心ない者がタバコを吸って、その煙がベル(火災報知機)に誤作動を起こさせたのではないかと想像した。

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※本記事は、2022年10月刊行の書籍『冬の日の幻想』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。