「実は僕、青木さんは女の人が好きな人なのかなって思ってたんです」

こんなこと言っていいのかわからないけれど、と申し訳なさそうに丁寧な前置きをし、田所さんは言葉を続けた。彼は同じアルバイト先の書店で働く大学院生だった。私より三歳年上だが、数ヶ月遅く働き始めたことを気にしてなのか、私への敬語を崩すことはなかった。

初めて田所さんと対面したとき、まず目を惹かれたのは唇だった。その日私は大幅な電車遅延に巻き込まれ、アルバイト先の最寄り駅の改札口を出たのは、通常であれば店に到着している時刻だった。

私は焦りと苛立ちを抱えたまま、駅から店までの道のりを、大げさにヒールを鳴らしながら走った。その甲斐あってか、思っていたよりも余裕のある時間に従業員専用口の扉を開けることができたが、私の前髪や顔はひどい乱れ方をしていた。

息を切らして見つめる先には、見慣れた浅葱色のエプロンを着た、静かな表情の知らない男性がいた。胸元には研修の文字と真新しい名札バッジが並んでいる。

「先週から入りました、田所と申します」

オレンジジュースが入った飲み口が広いペットボトルに口をつけていた彼は、私を見るなりその蓋を閉じて事務所のパイプ椅子から不器用に立ち上がった。小さな声と会釈で挨拶をくれた彼の目は、くるりと丸い形をしているが主張は控えめで、初対面の人間への緊張に揺れていた。加えて長身であることを感じさせない猫背気味の姿勢からは、些か頼りない印象を受けた。

しかしそれを打ち消すかのごとく、彼の唇には堂々たる存在感があった。平均より分厚く元来の色素から鮮やかなそれの上には、橙色の雫が名残惜し気に蛍光灯の下で光っている。それをみとめた途端、鮮烈な火花のような思いが私の身体を駆け抜けた。

私と彼しかいない、事務所特有の静けさが蔓延るこの空間で、言葉のみでは形容しがたい熱に自分自身が包まれていくのがわかった。

案の定、その日の業務は思うように身が入らず、新人時代でもしなかったようなミスを繰り返した。そんな私に、店長は怒るよりも先に心配のまなざしを向けてくれたので、私はそれにまんまと便乗してしばしの休憩をもらった。事務所に戻ると田所さんはもういなくなっていた。

無念と安心が混ざる頭で、私は先ほど生まれた感情を恋心と呼ぶことにした。

※本記事は、2021年12月刊行の書籍『同じ名前の鳥が鳴く』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。