腕時計の針は七時五十五分を指している。いつもは閑散としている東大路も、今夜ばかりは人の波だ。今日は八月十六日、京都五山の送り火が行われる日である。純平も吉田山の麓にある下宿を出て、八時に点火されて東山如意ヶ嶽(大文字山)に浮かび上がる「大」の文字を眺めようと、歩道に溢れる人波の中にいた。大文字山は、バレー部の冬季トレーニングで毎年何度も駆け上がってきた場所だ。

「大」の字の三画が交わる地点にある四阿(あずまや)がランニングのゴールであり、顎を出し、足を引きずった状態でそこに至ると、小休止の後は腹筋運動、背筋運動、腕立て伏せ、スクワットが待っている。

トレーニングメニューでいちばん辛かった大文字ランニングだが、もうこの冬は走ることはないと思うと、懐かしいような残念なような気もする。

春季リーグを三位の成績で終えると、純平たち四回生は七月の関西インカレを最後に引退した。春に一部昇格を果たしたら、相国寺、城戸、それにピンチレシーバーの大津と四人とも秋まで続け、一部リーグでの試合をまっとうしてから辞めるつもりだった。

一部残留を置き土産に、つまり来年春の新チームも一部で戦える状況を残そうと考えていたのだ。だが、エース相国寺を突然の死で失ったことで、この一年間純平が作り上げてきたチームとは別のものになってしまった。

このチームで引き続き純平たち四回生が指揮を取り続けるよりも、来年春を見据えた新しいチーム作りに取り組むほうがいいと、四回生が話し合って引退を決めたのだ。

もちろん引退後も、練習には顔を出している。新しいチーム作りに協力してやらねばならない。だが、明後日からの夏季合宿には参加しない予定である。今月末には大学院入試が控えているのだ。そのため今年は、夏休みの帰省もしていない。

現役を続けるのであれば両立させるつもりだったが、引退を決めた立場となれば、新チームには申し訳ないが合宿には参加せず、院試に向けた最後の仕上げをさせて貰おうと考えていた。今日もほぼ午後はずっと、専門書の原書に取り組み続けていたのだが、息抜きも兼ねて大文字の送り火を眺めようと下宿を出てきたのである。

この夏に初盆を迎えた相国寺を、苦しいトレーニングを共にした場所である大文字山を仰ぎながら、見送ってやることにもなるだろうという思いもあった。

【前回の記事を読む】【小説】チームメイトのプレイに生じた違和感「お前、やっぱり…」

※本記事は、2022年6月刊行の書籍『生命譚』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。