第一部

かくして、半は四十路になってから、思いもよらぬ子宝に恵まれた。この時代にはすでに老境入りの歳である。

「やっと念願かなった」

佐治衛門の喜びはひとしおである。実は、彼も度助と同じ婿養子の立場、しかも、佐治衛門も、もう四十歳も半ばで当時としては老年世代と言える。

これこそ与えられたラストチャンス。何とか無事に成人し長生きしてほしいと願わずにはおれない。そして、純之助と名付けられたが、純粋な性格のいい人間に育ってほしいとの願いが込められていた。

やや有頂天気味の佐治衛門は、民や度助のこともはばからず、自らの幼い吾子を抱いては、誇らしげに周囲に見せびらかして回った。当時、庄屋には数人の奉公人がいて、秋の年貢米収穫の農繁期には、さらに臨時雇いが増える。それらみんなに見せて回るから、近所でも評判になったほどだ。

そんな親の過保護の中で育った純之助は、良家のぼんぼんタイプの男の子になるべくして育ったようである。ただし、性格は素直で従順なお人よしであった。

知る限りの血縁者の人柄を見ていると、似たような人物が散見され、どうやら、この性格はこの家系の特徴のようにも思えるのである。恐らく、長い江戸時代を通して、庄屋という経済的に恵まれた環境の中で暮らしていたことから備わったものだろう。

さて、かくして十数年が大過なく過ぎ、純之助はいい家庭環境の中で何不自由なく育ち、成年を迎えることとなった。ただし、天明、寛政、文化、文政の時代で、当時の世相はというと、天候不順が全国的に頻発するなどで飢饉が度々起こり、各地で打ちこわしなどの暴動が起こったりして大変物騒な時代だったらしい。しかし、純之助のいた備中地区は、比較的に恵まれた条件で悲惨な飢饉などはほとんどなかったようである。

特に、佐治衛門の庄屋が管轄する市場村では、毎年ほぼ安定した年貢米の収穫があり、当時の岡田藩に貢献したようである。まず、集められた年貢米は、岡田藩の番屋敷に運ばれ、そこから川辺宿にある高梁川の船着き場に移送し、高瀬舟に積み込まれ川を下り、玉島港に運ばれた。そこで、当時の北前船に積み替えられて瀬戸内海へと出て、上方(大阪)に運ばれたのである。

その内、瀬戸内海では、高梁川の河口に位置する玉島港は、高瀬舟で運ばれた米や綿などを北前船に積み替える港町として、この時期大変栄えたと言われている。また、赤間(山口)、下津井、室津(兵庫)などと並んで代表的な瀬戸内海の交易港ともなっていた。

さて、再び、佐治衛門一家の話に戻るが……。純之助が世間一般の分別がつくようになった十五歳の年に佐治衛門は亡くなっている。当然、父の死によって庄屋の代表責任者の交代問題が起こる。

父が、うまく対処して我が子を後継者に指名して、それが公に認められていれば、親子でスムーズな引き継ぎができていた。しかし、佐治衛門の死は急だった。恐らく心筋梗塞のような急性の病気だったのだろう。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。