そんな郁子の地道な努力により、八年間の社宅生活で蓄えられた貯蓄は二千万円にも及んだ。それは家具の追加の購入ばかりか、マイホームの頭金としても十分な額だった。

当時、春彦の父母は足腰が弱ってきたこともあり、先祖代々からの古家を更地にして駅前のマンションへと引っ越した。タイミングよくその土地を借り受けることができ、春彦は運良くマイホームを建てることができた。いくら営業成績が良かったと言っても、子どもも遊べる家を三十六歳の春彦がそうやすやすと建てられるはずもなかった。

この時、春彦は自分の幸先の良さに、心底喜んでいた。郁子との社宅での八年間はそれだけの貯金をしたにも拘らず、とても豊かなものだった。無駄な買い物一つせずに貯めたとはいっても、春彦にその窮屈さを感じさせることは一切なかった。むしろ家事全般に渡り日々郁子が手品のように繰り出す何かが楽しみな、そんな八年間だった。

社宅のアイドル郁子の家事の手腕に、嘘偽りはなかった。その中でも身体が資本の春彦にとって、郁子の料理の腕前はとてもありがたいものだった。毎朝持たせてくれる手作り弁当の手提げには、食べやすいようにラッピングされたお手製の菓子も必ず入っていた。その菓子を余程気に入ったのだろう。味見させた同僚からは、顔を合わせる度にねだられる始末だった。

それを知った郁子が人数分の菓子を用意してくれたのは、一度や二度ではなかった。最初こそそんな妻郁子を自慢に思ってはいたものの、その台所事情が心配になるのにそう時間はかからなかった。ところが、そんな春彦に郁子が照れくさそうに見せた家計簿に、春彦お得意の

「へ?」

という素っ頓狂な声が上がったのは言うまでもなかった。それは郁子の豊富な知識もさることながら、むしろ一切の手間を惜しまないその姿勢によるところが大きかった。

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※本記事は、2022年8月刊行の書籍『振り子の指す方へ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。