マスターが水を運んできた。智洋は、いつものようにモカを注文しよう思った。

「えっとぉ、モカ」と言いかけ、胃にやさしくないかも、と翻った。「アメリカン、ください」。

マスターは「おやっ」というような表情を見せた。

えっ? アメリカンはまだない……? そんなことはないわよね……コーヒー専門店だし。昭和も四十六年なら。

マスターは何も言わずにカウンターの向こう側に戻った。智洋は、ホッとした。

豆を機械で挽く音が聞こえてきた。素敵な香り。なんか、落ち着く。やっと生き返ったような。といっても死んでいたわけじゃないけど。でも、いい。とっても、いい匂い。生きている実感がする……。

しばらくの間、智洋の心は、どこでもないどこかに飛んでいた。マスターがコーヒーを運んでくる姿に、気づいた。

「おまたせ」

小さなミルクポットを置いていった。砂糖のポットはテーブルの上にある。

ブラックのままでいい……。おいしい。味わうということは、こういうことかと、いまさらながらに、目を閉じ、味わった。アメリカンをおいしいと思ったことなど、あっただろうか……たいていは、コーヒーを飲み過ぎたときの、ピンチヒッターみたいな存在。

そうか、そうかも。目を開けた。豆を挽いていたということは、ブレンドにお湯を足す、インチキアメリカンじゃないんだ、ちゃんとしたアメリカンコーヒー……。うん、豆を挽く機械が、あそこにある。

いまは、それほど珍しいわけではない。けど、お湯で割った、というか薄めただけのアメリカンを出している店、少なくないと思う、いまでも。もし、ここが三十年前なら、かなり稀有かも。さすが専門店。

そぉか、だとすると、コーヒー二百八十円と比べちゃダメよね、四百円とか五百円くらいのレベルと比較しなきゃ。ならば、三倍、うん、少なくとも三倍なら、なんとなく……智洋は勝手に納得した。

マスターの立つ背後にカレンダーが見えた。三月と四月。三月の十日は水曜日。年は、少し遠くて字は小さかった。見間違えるほどではない。1971。疑問の余地はもうない。信じられないけど、信じるしかない。ここは、二〇〇一年ではない。二十一世紀ではない。二十世紀の、昭和の、一九七一年。それは認めるわよ。認めたからって、どうなるものでもないけどさ……。

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※本記事は、2022年5月刊行の書籍『再会。またふたたびの……』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。