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自由といっても、古いものではなく、部族社会等の自然な相互扶助を離れ、農村・都市の分離や資本主義の進展による分業の成立により、一人・個人だけの生活が可能になり、扶助が金銭等で購入できるようになってからである。

若いときと違って、「自由」について絶対的とか根源的とかを問い、「生来からの自由」とか、「自由の絶対性」とか肩肘を張る言い方はしなくなった。与件なしの自由は存在しないと解ってきたからである。人間が生き物として生まれてくることにしても、そうそう勿体ぶることでもなさそうだ。少なくとも、概念としての絶対自由を引っ提げて誕生してくるわけではない。

しかも親の世話なくして1日たりとも生きられない。身近な助け合いを離れて生きられるようになったからといって、公助による福祉や公共サービスと分業による生活物品の恩恵なくしては1週間も生きられない。お金を払えば生きられるなどと思い上がらない方がいいのである。

ハンナ・アーレントの公共哲学もダテではない。おそらく、群れとして顔がおおよそ分かり相互の共同性が成り立っていた部族社会を離れ、広い民族国家になって以来、生き物の能力の限度を超える判断が求められるようになり、「自分の領分」の判断と「他者との関係」に無理を重ねているように思えてならない。たとえ、一方で地球を超える高度な天文学・物理学をこなしても、である。「自由」は、全世界のホモサピエンスの内部で、まだ十分にこなれていないのである。

以下は、私のノートに残るメモであるが、かなり面倒くさい。軽く読み飛ばすことにするか。長じて、幼児・少年・青年・中年そして今の老年と比較して、自分の同一性にすら自信はない、しかも自己が自分を所有する権利の絶対性などにも自信はない。

自由と不可分の自分自身にしてからが、そんな体たらくである。フリーダムとリバティの、自分内での内部調整だって結構難しい。自由という言葉を持て余し手こずっているのである。

ただ待てよ、である。妥協を重ね、「汚れちまったかなしみ」を引き摺る私でも、そんなところで引き下がらないぞ。ここに存在する一個の生命体の「ここ(場所)」「これ(存在)」が、「国家の所属場所であり、所属物」であるという屁理屈には、「絶対に根源的に」組しないぞ。個人にそんな「付箋を付ける権利」は国家にはないという最低限のことはキチンと押さえておかなければならない。

この星に生まれ落される生命体の「ここ」という場所は、地球という星の成り立ちから言って、誰彼のものではない「無主の場所」である。また「これ」も地球の誰彼にも属さない「非所属」である。地球という星のあるところに、たまたま貼り付いた生き物である。人間に限らず、生きとし生けるものすべてに言えることである。

私は、国籍として日本を選ぶ。ただ、自分という生き物として、どこに所属するかの「付箋を付ける権利」は、権利原論の問題として留保しておきたいのである。世界で少数派の日本の戸籍法における国籍は、出生時ではなく成人時に選択制にするのが、自由論のためには後腐れがないように思われる。

※本記事は、2022年9月刊行の書籍『徒然な男のブルース オケラの戯言365話』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。