「自分が我慢して丸くおさまるのなら……」

唐突ですが、今、あなたは自己犠牲感を抱えていませんか?

「私が犠牲になればいい」「私が我慢して丸くおさまるならそれでいい」「へたに反論して面倒なことになるくらいなら、自分が折れたほうが楽」。これらの項目が当てはまる方に向けてお話しします。自己犠牲感は“怒りの結晶”です。結晶を融解させるには何らかの手立てが必要です。

時間が経てば自然融解するものではありません。自己犠牲感を植え付けてくる相手に共通しているのは、その人の中に根付いている、「欠乏感」「承認欲求」「不安や心配などの怖れ」「怒り」などです。それらをまとめてエゴと呼びます。そしてそれを受け入れてしまう人にもそれ(エゴ)はあります。

それら人のエゴが共振した時、エゴはさらに強くなり“支配する⇄支配される”関係や、“共依存”の関係をつくってしまうのです。

そうなった場合、それは相手の問題だけでは無くなります。それに違和感を持ちながら、対処を先延ばししてきた自分にも問題があるのです。本質的なところを解決しないと、例え目の前のタスク(自分が折れるというその場しのぎのやり方)がクリアできたとしても、それは“かりそめ”。人はいつまで経っても苦しむことになります。

あえて強い言い方をしましたが、僕は母との関係において、ずっと本質的な解決を先送りしてきたので、そうせざる得ない人の気持ちはよく分かります。僕は悩みが深くなったことを自覚した時、解決の糸口を「般若心経」に求めました。その結果、少しずつ自分の概念が変わっていきました。そして諸々の想いや怖れを手放す決心をようやくつけられました。

長年の課題だった「自己犠牲感を手放す」一歩を、絶縁という形で7年前に踏み出すことができたのです。

 今、本質的な解決を先送りにして、辛い現実を無理やり飲み込んでいる方。あるいは頑張って飲み込もうとしている方。「何かアクションを起こして面倒なことになるくらいなら」「自分が我慢すれば済むことだから」と思われている方。 すべての人間関係は対等であるべきです。男女・年齢差・肩書き・親子、関係なく平等です。

その原点に気持ちを戻しましょう。そこを基軸にすると本筋が見えてきます。勝手に線引きされた力関係により、「ある者がある者を抑えつける」という構図は、決して健全であると言えません。愛情と束縛は紙一重。愛情のつもりで接していたことがいつしか束縛になったり、馴れ合いの中で派生した甘やかしが、いつしか共依存の関係を作ったり。そうなるとお互いが不幸になります。

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※本記事は、2022年7月刊行の書籍『“おかげマインド”』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。