二章

罪と罰

罪なき者のみ苦境に置かれ、泣き暮れている。声を上げる方法もなかった。

この理不尽をずっと引きずってきた。ウソは罪そのものなのに、立証できなければ裁けない。冤罪者がでっち上げられたことを覆すことは容易ではない。虚言の害は、今もって多種多様で疎ましい。裁かれないウソのカケラが至る所に散乱している。足の踏み場もない。

さらに言葉の罪の毒は、誰もが避けて通れないほどに至る所でたれ流しになっている。これは身近で日常的な情況になっている。

ここにでっち上げられた罪がある。なのに罰はないのだろうか?

否、ウソを言って人を陥れた〈事実〉、これこそが〈罰〉そのものだった、と知る。

決して消すことのできない事実の記憶は確実に自分の心に刻み込まれている。これは確実に魂にも記憶される。

ここに普遍的な宇宙の厳密な法則が存在しているのだ。

誰もが知っている、四知の教えに、天知る、地知る、我れ知る、子知る、にあるように天地の神々も、私も君も知っているのだ。故にここに事実の証拠があるかぎり、もはやどこにも逃げ場はない。

これほどの罰はない。

〈事実の証拠〉が罰。

〈罪と罰は糾える縄の如し〉。

〈罪に罰は必然〉。

この論理に随分と長い歳月をついやして辿り着いた。今にして、やっと罪と罰の執着から解放された。

自分の言動が善であっても、事実を誇張して表現すれば、それは虚言になり得る。

なるべく不言実行がいい。言葉の力は強いから、ウソはできれば方便だけに止めたい。

何時の時代にも虚言の害は多岐にわたって巧妙に世に憚っている。古代から言葉には言霊が宿っているので、その力が働いて言葉通りの事象が、もたらされると信じられている。

言葉は人間だけが神様から授った特有能力なので、私たちはとてつもなくありがたい恩恵を頂いているのだ。

だから言葉遣いには、常に意識を高くして責任を持って使って頂きたい、と願う。

言葉は諸刃の剣。使い方次第で善になり、凶器になる。人を切ることは、自分を切ること、と同義。言葉の毒で殺されることだってある。愛の言葉に生かされもする。私は自分では気づかずに、相手に対して毒気を吐き出しているかも知れないから、常に言葉遣いに気をつけることを肝に銘じている。

なるべく、無口であれ。寡黙でありたいと自戒している。