■ 開成学校が東京大学になるまで

さて、この開成学校とはどんな学校だったのでしょうか。

江戸時代には鎖国政策がとられていましたが、オランダとは交易があり、それに必要な人材は育成されていました。また特に医学と天文学については西洋の知識が重視されており、幕末になるとその趨勢が強まって、天文台に附属していた蛮書和解御用方が安政二年(一八五五年)に独立して洋学所と名を改めます。

洋学所は翌安政三年に蕃書調所と改称し、また役所というよりは学校の体裁をとり、実際に次の安政四年(一八五七年)から生徒を入学させるようになる。日本の近代化に必要な人材の養成が学校という形で始まったのです。この学校は文久二年(一八六二年)に洋書調所と改称し、さらに翌年に開成所と名を改めます。

江戸幕府の滅亡によりいったん廃止されますが、明治元年に復活しています。この時代の制度や名称の改変が実に目まぐるしかったことは、以上の記述からもお分かりいただけるでしょう。しかし「猫の目」のような改変はその後もしばらく続きます。

開成所は明治二年に大学南校、そして四年には単に南校と改称されるのですが、その頃はまだ外国語の修得をメインとしており、法律や工学などの学術に関しては中等教育程度のレベルだったようです。

ちなみに、なぜ一時期大学南校と名づけられたかというと、明治維新は徳川幕府が大政奉還を天皇に対して行うという形をとったことからも分かるように、名目上は「復古」であったからで、そのため漢学を主体とする従来からの学問所であった昌平黌(しょうへいこう)(昌平坂学問所)が明治二年に「大学校」とされ、これに対して洋学を学ぶ場である開成所はいわばその付随的な一部分として大学南校とされたからでした。

同様に、幕末に設けられていた西洋医学を学ぶ施設が「大学東校」とされます。しかし古い漢学は新時代の要請に応えることができなかったので、昌平黌から作られた大学校本体のほうは明治四年に廃止されてしまいます。

一方、新時代に欠かせない洋学を学ぶ学校である開成所(そして大学南校、南校と改称したわけですが)では徐々に生徒の学力が向上し、明治六年(一八七三年)にふたたび開成学校の名となり、専門学校(これについては後述)レベルの教育がなされるようになります。そして専門学を学ぶ生徒と語学を学ぶ生徒が分けられて、後者のための学校として東京外国語学校が分離独立します。これが二葉亭四迷の学ぶことになる学校です。

明治七年、開成学校は東京開成学校と名を改め、三年の予科も設けられます。予科は小学校卒業後の中等教育機関、それを終えた後の東京開成学校は高等教育機関という位置づけになったわけです。

※本記事は、2022年11月刊行の書籍『「学歴」で読む日本近代文学』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。