皇極4年紀(乙巳年・645年)条の6月8日条から同月13日条にかけて、舒明天皇・皇極天皇夫婦の長子、中大兄皇子(なかのおほえのみこ。のちの天智天皇)が中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ。中臣鎌足〔なかとみのかまたり〕に同じ)と謀り、当時朝廷において執政の実権を握っていた蘇我大臣蝦夷(そがのおほおみえみし)・蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)親子を滅ぼしたいわゆる乙巳の変が記述されている。

この乙巳の変は、三韓が共に調貢することを利用して入鹿を討ったとされる事変なのであるが、645年という年は、唐が第1次高句麗征討を実行した年であり、この年、朝鮮半島では高句麗と、これを討つ唐・新羅連合軍とが死闘を繰り広げており、その隙を突いて百済が、前年に失っていた7城を新羅から奪い返した年でもある。故に645年という年は、我が国に三韓が踵を接して調貢するような時期であったとは考え難い。

この乙巳の変も、1年繰り下げて、646年の、つまり朝鮮半島の動乱が一旦終息した後の事件であったと考える方が合理的である(実際、そう考えるべきであることを証明するのが、拙著の目的の一つである)。斉明4年紀(戊午年・658年)4月条に、阿陪臣(あへのおみ)による蝦夷(えみし。当時、東北地方以北に盤踞していた原住民)征伐記事がある。

ところが斉明5年紀(己未年・659年)3月是月条にも阿倍臣(あへのおみ)による蝦夷征討記事があって、両者は同事重出記事と目される。するとこれまでの例に鑑みれば、前者の記事もまた1年繰り下げて考えるべき記事である。

斉明7年紀(辛酉年・661年)7月24日条に斉明天皇の崩去記事があり、以後11月9日にかけて、中大兄皇太子が服喪し天皇の遺体を九州から大和飛鳥まで運んで殯(もがり)するまでの記事があるが、奇妙なことに、その間、同年8月には、前年の660年に唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済を救うための軍が派遣されており、9月条には、長く人質として日本にいた百済王子豊璋(ほうしやう)を百済王として百済残党のもとに衛送した記事が入っている。

これでは中大兄皇太子は、天皇の喪と殯を行う傍らで、救百済軍事に余念なき状態である。斉明天皇の崩去と殯までの記事は、これまた1年繰り下げるべきではないか(実際そうするべきであることが証明できる)。但し、豊璋を百済に衛送したという9月条は、今度は天智元年紀(壬戌年・662年)の5月条の記事と同事重出記事である。故に前者がまた、実は1年繰り下げられるべき記事である。

※本記事は、2021年12月刊行の書籍『6~7世紀の日本書紀編年の修正』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。