終わりに、冒頭に掲げた『日本の名随筆』別巻十一「囲碁」の中から近藤啓太郎の「勝負師一代」の一部を紹介したい。

これは当時、本因坊のタイトルを持つ坂田栄男本因坊と名人位のタイトルを持っている藤沢秀行名人との名人位をかけた戦いの模様を描いたもので、七番勝負のうち対局は既に第六戦目に入っている。これまでの戦績は、藤沢名人の三勝二敗、一~二戦は坂田本因坊の連勝、三〜五戦は藤沢名人が連勝している。従って、この第六戦は、坂田本因坊のカド番ということになる。

この戦いに坂田が負ければ、藤沢が名人位を防衛することになる。私は再び対局室に行った。本因坊が二十分余り考えてから、鮮やかな手捌きで石を打ち下した。名人は腕を組んだまま、暫く盤面を凝視した。

「凄い手だ」

名人は思わずそう言った。そして、煙草をくわえて火をつけたが、ちょっと吸ってすぐ灰皿へ捨てた。

「いや、全く凄い手だ。恐れ入り仕って候」

名人は意識して今度はそう言ったようであった。そんなとき、庭の方で猫の鳴く声がした。するとまた、名人が口をひらいた。

「ゴロニャーン、ゴロニヤーンと鳴かれたか。お父さん助けて」

私はおかっぱ頭の名人の顔をみながら、つき合ったら面白い人だろうと思った。感覚的に私たち文士と近いものをもっている人だという感じがした。それから暫く経って、名人の打ち方が急に早くなった。本因坊も間髪を入れず受けて打った。火花の散るような両者の打ち方であった。

十手余り打ったとき、名人の動きが止まった。盤面に覆いかぶさるようにしていた上半身を起こすと、ひと息ついてから、一礼した。

「ありません」

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※本記事は、2022年10月刊行の書籍『冬の日の幻想』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。