かろうじていくつかある思い出は、もう小学校に上がった六歳以降のことだろうか。私の幼少期、父は、日本が管轄する台湾総督府によって奨励されていた糖業の事業に携わっていた。製糖の主力企業として設立された台湾製糖の下請け会社を経営しており、地元の人々を百六十名以上も従業員として雇うほどの規模のものだったようだ。

後に知ったことだが、この時代、台湾は日本の資源供給基地としての役割を担い、さまざまな産業が活気を見せていた。父のように多くの日本人が成功を夢見て台湾に渡り、いろいろな事業を興していた。日本人であるということだけで恵まれ、日本国内の日本人よりも豊かな暮らしをしていたのだと思う。

父もそれなりの規模の会社の経営に携わっていたから、今思えば当時としては大変恵まれた暮らしぶりであった。

私たち家族は、日本人だけが暮らせると定められていた町で、大きな一戸建ての家に住んでいた。庭にはパパイヤの木が何本も生えており、手を伸ばせば果実がいくらでも手に入る。おやつ代わりにほおばって食べるのが楽しみだった。

小学校も日本人のみが通う学校で、日本人の先生から日本語で教育を受けた。立派なプールがあったこともよく覚えている。なぜならあるとき、クラスの友だちとプールに入って遊んでいて、足が滑って仰向けに転んでしまったことがあるからだ。それほど深い水ではなかったが、慌てた私がバタバタともがいていると、女の先生が洋服のままプールに飛び込み、私をすくい上げてくれたのだ。その懸命さが嬉しく、今も鮮明な記憶として残っている。

小学校の校庭にはゴムの木がずらりと並んで植えられていて、いたずら好きな少年だった私は、よく木肌を小刀で削っていた。にじみ出てくる樹液が面白く、クラスの女の子と一緒に、何度も繰り返し遊んだものだった。

たぶん、そのときに大好きだった女の子が、私の初恋の子だと思う。でもその後、終戦を機に日本人の家族たちはそれぞれに、互いに別れも告げずに慌ただしく日本に帰ってしまったから、彼女が無事に日本に戻れたのか、どこで暮らしているのかもまったくわからない。台湾時代に一緒だったクラスメートは、誰一人その後を知らない。ただ一時の出会い、そしていつのまにか私たちは離れ離れになっていた。

あの頃、私は小学校に通うにも、雨が降っていると家に人力車を呼んで、学校まで乗せて送ってもらっていた。今考えればずいぶんなお坊ちゃんぶりである。

ゆったりと流れる時間の中で、なんの苦労も不安もなく過ごしたこの頃、これから訪れる敗戦、戦後の苦難の日々など想像もできず、ただただ豊かな幼少期であったのだ。

※本記事は、2020年9月刊行の書籍『波乱万丈、どぎゃん苦にも負けんばい』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。