第三章 井の中の蛙井の中も知らず

十部族の日本渡来説を背理法で読み解けば

次に「この問題」に気づいたのは、明治期のキリスト者を代表する内村鑑三です。彼は「日本」という「この問題」を通して神の摂理に触れ、そこに働く神の配剤と、「幻」を見ることが許されたキリスト者でした。

曰く、「余の生国についての余の考えは、余がそこに留まっていた間はきわめて一面的であった。(中略)しかし遥か流竄の地から眺めて、余の国は『無用の長物』たることを止めた。

それはすばらしく美しく見え始めた、余の異教徒時代の怪奇な美ではなくして、それ自身の歴史的個性をそなえて宇宙の中に一定の空間を占める真に均整のとれた調和的美であった。一国民としてのその存在は天そのものによって命ぜられたのである。

そして世界と人類に対するその使命は明白に告知せられた、(中略)それは、高い目的と高貴な野心を有する聖なる実存であるように、世界と人類のためにあるように、見えた。そのような輝かしい祖国観が余の幻に与えられたことは、余の限りない感謝であった」。

内村鑑三の告白は、キリスト者の日本人とて「日本」に軸足を定めない限り、神の日本に対する「幻」など見ること能わずという逆証です。当たり前の話です。「日本」に軸足がなく「同胞」に負うべき負債のない職業宗教家、自己目的化した根無し草に対して誰が「幻」など見せてくれるものでしょうか。

子供でも分かりそうなこの常識を、かの宗教家たちは救済論や終末予想における神学問題として捉え、針小棒大に解釈したのです。偉大なるその勘違いにより伝道者の脳ミソがバックラッシュを起こし、思考停止になっていただけの話です。

しかし「この問題」もまた、神の配剤下にある者たちへの覚醒すべき命題として与えられていたのなら、我々の気づくべき数が満ちるその日まで、神は何度でも出してくるのはこれもまた道理ではないでしょうか。

だとすれば、日本における福音宣教の惨状は、受け取り手の側に責任転嫁してきた「他者目線」に立つ者、即ち「来ていない。よしんば来たとしてもそれがどうした」と言う側の問題であり、軸足なきその「漢意」であるということになってしまいそうです。

聖書の前提は、聖書に尋ねなければなりません。西洋キリスト教の経典として偏頗な深読みをする限り、決して見えてこない問題があるからです。

聖書はイスラエル民族の公的「歴史書」という視点からではなく、一心に御子イエス・キリストの死と復活を記した個人的「信仰書」として、罪の赦しと天国行きの通行手形という前提からのみ日本人に教えようとしてはなりません。

異邦人にはそれでもまだ良かったのですが、「善人なをもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」を国是のように考えている同胞に対しては、いささか力不足です。宣教論としても拙速は否めず、合点のいく話ではありません。

大体日本人は自らを「邦人」と称する者たちであり、異邦人ではありません。重ねて、異邦人からすれば選民イスラエルの歴史といったところで、所詮は他人事でしかないのです。聖書とは、神と人との邂逅を双方向的に記したイスラエル民族の「歴史書」であるということを銘記しておかねばなりません。

聖書にご自身を啓示された「イスラエルの神」は、日本人がキリスト教というこの世の「宗教」に帰依することを由とはされないと考えなければ、辻褄が合いません。理由は簡単です。日本人こそが「神のイスラエル」だからです。

巷間噂話に絶えることのない「失われた北イスラエルの十部族」の日本渡来説が事実なら、日本人が異邦人の傘下に入りヘレニズム・キリスト教へと集団改宗することなどできません。「イスラエル全家の回復」は不可能となるからです。

聖書の最終預言はキリスト教伝道の成功によって失敗し、成就しないというおかしな事態が生じるのです。イエスが「イスラエルの王」(ヨハネ1:49、12 :13)として再びこの地上に来られる時、出迎えるのが皆異邦人ならば、聖書ほど支離滅裂な書物はありません。

そこに出迎えるはずの「イスラエルの全家」が揃っていなければ、一体何のための地上再臨なのか訳が分かりません。これまた、背理法の所以です。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。