「………………何所から来たのだ」

「あの丘を越えて来た。東からだ」と、言って牧夫は後ろの草原を指差した。

「何所へ行くのか」

「西だ!」

「それでは応えにならぬではないか」と、青年は睨むように牧夫を見た。

「俺の役目は羊を連れて西へ旅するだけ」

牧夫は長い棒を回しながら、怪訝な目を青年に返した。

「それではこの膨大な数の羊は、誰の物なのだ」

「この羊は貴男の物。貴男が生涯に食べる羊だよ」

牧夫は一瞬、頸を傾げて青年の顔を見たが躊躇いもなく言い放った。

「何を訳の分からぬことを言うのだ。儂に心当たりもないし、これほどの羊買った覚えもない」

耳を疑いながら、青年は真顔でこちらを向く牧夫を足先から髪の毛まで見直した。

牧夫は何も言わずに、首を傾げた。

「面白いことを言うが、これ程の数の羊、何百年の寿命があっても、食べ尽くせるわけがなかろう」

と、笑い飛ばすように男の反応を見た。

「貴男の羊であることに変わりはない!」

表情を変えることなく言い置いた牧夫は、腰に結び付けた袋の中から干し肉の一片を取り出し口に入れた。

「どのように食べるかは貴男次第」

牧夫はニヤリと笑って、背を向けると、羊の群れをまとめながら傾く陽を追うように、西へ向かって歩き始めた。

「おーい、本当に儂の羊か」

「そうだ」

牧夫は振り向きもせずに声を返した。

「あの牧夫は何者……!」胸の内で小さく呟いた。

言葉の意味も分からぬまま、遠ざかる羊の群れを呆然として見送る青年の頬を冷たい風が撫で、絹の衣が大きく風にそよいだ。

その時、突然足許の地面が動いた。

同時に羊の群れが一斉に夕陽に向かって走り出すのが、目の隅に映った。

地震かと思い青年が身を屈め、地面に手を突いた。

途端、草原が沈むように凹み、足許の大地が大きく裂け始めた。

青年は一瞬にして、暗黒の大地の割れ目に落ち、渦巻く濁流に飲み込まれた。

※本記事は、2022年11月刊行の書籍『羊を食べ尽くした男』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。