少女に憑りつくもの

「真島はさ、どうしていつも一人ぼっちでいるの?俺が話しかけてもいつもそっけなくてさ……さっき、真島が笑ってくれた時にこう思ったんだ。あんなふうにいつも笑っていてくれたらいいのにって。」

圭太を見つめる咲希が、

「どうして?」

と、言った。その声は、驚きを含んでいた。

「どうして伊藤くんは、私にそんな話をするの?わざわざ、夜にこんな場所に来てまで」

私のこと、そんなふうに気にかける人、クラスに今までいなかったのに、と川の方に顔を向け、独り言みたいに小声でポツリと言う。

「それは……」

圭太は、言葉に詰まった。自分の内側にある、まだ名前をつけられていない咲希に対する気持ちを見つめた。

二人の間に沈黙が落ちた。辺りは静かだった。川原に生える草の中に住む虫たちがリーリーとか、ギリギリとか鳴いているのが聞こえた。圭太は、自分の心臓の鼓動が聞こえそうな気がしていた。

やがて、咲希は立ちあがると、

「今日はありがとう」

と言った。

「伊藤くんが私のこと心配してくれて、嬉しかった」

そう言い残して、土手の方にくるりと向き直る。

「私、そろそろ帰らなきゃ。おばあちゃんが心配するわ。屋台の片付けの手伝いも終わって、そろそろ家に戻ってくる頃のはずだから」

咲希が浴衣の裾の衣擦れの音をさせながら、土手の方に歩き出す。その姿ははっきりと見えないけれど、今日ずっと斜め後ろから咲希を見つめていた圭太には、彼女の去っていく後ろ姿がありありと目に浮かんだ。咲希は今日、長い黒髪を編み上げて赤い花の飾りがついた髪留めでとめていた。その花は、咲希が歩くと少し揺れた。白くて細いうなじには後れ毛がかかっていた金魚をすくおうとうつむいた時、襟からうなじがのぞいていたのが目に焼き付いていた。

湿った草を踏む下駄の音が、一歩、また一歩と、離れていく。

圭太は立ちあがった。そして、咲希を呼び止めようとした。

しかし、声が出なかった。咲希を呼び止める口実が何一つ思い浮かばなかった。どうして自分が呼び止めようとしているのか、呼び止めてどうしたいのか。それすらも、自分で理解していなかった。

咲希は、土手を上り帰っていった。おそらく、後れ毛のあるまとめ髪の上で、赤い花を揺らして。圭太は、川原に取り残されたまま、しばらく一人きりで立ち尽くしていた。

ここにいると、十数年昔、中学で教師をしていたことを思い出す。澤田瑞希先生は、室内をグルリと見回しながらそう思った。黒板に赤と白のチョークで書かれた今日の課題、粉にまみれた黒板消し、木製の教壇に、教室にチャイムを響かせるスピーカー、並んだ窓、並んだ生徒達。

雑居ビルの一、二階にあるここは、昔、学習塾だった。今は、表に「アトリエさわだ」という看板を出している。塾だった頃の受付や職員室、教室をほぼそのまま使っているので、室内の景色は個人経営の、美術教室というより、勉強する場所を思わせるものになっている。

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※本記事は、2021年8月刊行の書籍『終わりの象徴』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。