蒸気機関の発明

ジェームズ・ワット(一七三六年~一八一九年)は、一七五七年に当時、教授をしていたアダム・スミスのはからいで、グラスゴー大学構内で実験器具製造・修理店を開業することができました。グラスゴー大学は大学の構内に彼が自由に働ける仕事場も与えてくれました。

一七六三年から一七六四年にかけて、グラスゴー大学で物理学講義の実験用に使われていたニューコメンの蒸気機関の模型を修理するという機会がありました。これらを通じて、彼はこれまでの蒸気機関における問題点、改良点を見抜きました。彼は単なる経験の積み上げだけでなく、(大学で自由に聴講できたので)原理的な理論面を学んでいたことと、多くの教授たちとの議論が彼の思考を助けたのです。

従来のニューコメン蒸気機関は、生成された熱の一%程度しか動力に転換していないことがわかりました。ワットは、まずシリンダーから冷却機を分離した蒸気機関を発明することに成功し、より多くの熱を動力に転換できるようにし、一七六九年に支援者のローバックと「火力機関において蒸気と燃料の消費を減少させるために新たに発明された方法」で特許を取得しました。

この特許をとるのは比較的やさしかったのですが、これを実用化するとなると、大変な困難が予想されました。とても中世以来のような機械技師、時計師、ブリキ工、水車大工などの手におえるようなものではありませんでした。

ワットはバーミンガムのマシュー・ボールトン(一七二八~一八〇九年)と一七七五年にボールトン・ワット社を作り、ワット式蒸気機関の製造を開始しました。ワットとボールトンが実用機関をつくるのに最大の問題となったのは、円筒シリンダーの製作でした。これを解決してくれたのはジョン・ウィルキンソンで、彼は一七七五年に工作機械の中ぐり盤を開発しましたが、これでワットは精密な円筒シリンダーを作ることができました。

また、一七七五年から一七九〇年までかけてワットは自分の蒸気機関をさらに改良するとともに、一七八一年に遊星歯車装置の特許を取得し、翌一七八二年に複動機関、一七八八年に遠心調速機、一七九一年にボール調速機などを開発しました。この過程で、シリンダーで押された力をクランクやカム、はずみ車等といった機械部品を利用して軸の回転運動に変換し、「熱から回転運動」を生み出していきました。

これは蒸気機関から機械装置を駆動させる動力を取り出す仕組みであり、ワットはそれをすべて緻密に作り出していったのです。これによってニューコメンまでの機関が上下(前後)運動(ピストン運動)に限られていたものを回転運動にしたことは、もはや鉱山の揚水(排水ポンプ)に使われるだけではない万能蒸気機関となりました。

この回転運動への転換は一七八五年までかかりましたが、このときから様々な機械に蒸気機関が応用されるようになりました。ワットとボールトンは最後までがんばることができ、蒸気機関と機械産業の確立という偉業を成し遂げることができました。それには三〇年近くがかかっていました。

※本記事は、2022年3月刊行の書籍『劇症型地球温暖化の危機を資本主義改革で乗り越える』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。