(二)日本海の魚

私は幼少の頃、室蘭の太平洋に面する電信浜のそばで育った。四歳で終戦を迎えたので言わば戦時中の人間である。終戦後の生活はまず食い物の調達から始まった。父は安月給の教員であったため母は六人兄弟、八人家族の食事を準備しなければならず大変な苦労を強いられていた。

従って春の大潮の季節には母の喜ぶ顔見たさに、兄や姉に連れられて潮が大きく引いた浜に出かけ、少しでも食材の足しにして貰おうと冷たい海水に入って磯の獲物を捕った思い出が今でも鮮明に残っている。

その後、大学に進みアルペン競技に打ち込み肺活量が人並み以上になると、合宿費稼ぎのため大型貨物船が出入りする室蘭港白防波堤突端のケーソン(コンクリートブロック)の上から一気に潜り、海底に潜むノナ(青紫うに)や巨大ムール貝、つぶ貝などを捕って浜町の料亭に内緒で買い取って貰った思い出がある。

そして自ら金を稼ぐことができるようになってからは幼少の頃からの夢であったクルーザーで伊豆の島々を航行するに至った。その経緯は初作の『島影を求めて』で語った通りである。

つまり、こと太平洋の魚に関しては詳しかったが日本海の魚については殆ど無知であった。ましてやロシアの大河に含まれるリッチなミネラルを含んだ親潮が北海道近海で黒潮にぶつかって大量の霧を生み出し、膨大なプランクトンを発生させて豊富な魚に恵まれた北の海に対し、台湾の遥か南方海上で黒潮となって動き出し日本海を分流となって北上する暖流の海にはプランクトンが少ない。

その海に何故「次男坊」が出してくれるような旨い魚が捕れるのか大いに疑問を持ちそして考えた。物事をロジックで考えそれが的中した時の喜びに浸ることが私の一つの癖であった。私はそのロジックを裏づけるため、日本海の魚になったつもりでまた、愛艇のフライブリッジ(二階の運転席)に立った目線で日本海を北に上ってみることにしよう。

黒潮は台湾東岸を駆け上がり九州の南西海上で太平洋と日本海に分かれて北上する。一方、日本海を通る分流は対馬と隠岐の島の間を通って玄界灘に達し、その時点で対馬海流となる。その対馬海流がややしばらく日本海沿岸に沿って流れ続けていると遥か東方海上に緑の岬が見え出す。宍道湖を擁する島根半島であり、その先には巨大な山が聳え立っている。独立峰、大山である。

大山は日本海を渡って来る北西の季節風を止め、半島の先に風を押しやって海中を攪拌させて、北に上がる魚にとってはご馳走のプランクトンを発生させる。そこで活力を得た魚の一つがテニスの錦織選手が好んで食べたと言われるムツの仲間のノド黒である。そして能登半島の手前、金沢まで達した魚たちは加賀百万石の魚のおもてなしの文化を育てる。

私は小松製作所との仕事の縁で安宅の関に近い海鮮料亭でその魚の文化の元になったノド黒、ブリ、香箱蟹、白エビなどを十分に堪能させてもらったことがある。それが長い間私の唯一の日本海の魚に対する乏しい知識であった。

※本記事は、2022年2月刊行の書籍『居酒屋 千夜一夜物語』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。