スペイン帰りの女性が「パエリアのレシピ」を検索して気づいたこと

迷いながら揺れ動く女のこころ

気になっていたことがあったので美代子は急いでパソコンを閉じて、主人の入浴介助のことを考えていた。正直、入浴介助がどんなものか美代子には想像も出来ない。でもスペイン旅行から帰った後で主人に「明日から入浴介助は私がやります」と言ってしまった。

一時の気持ちが高揚している時に衝動的に言ってしまったのかもしれないが、やはり不安だった。普段から美月さんにそれとなくどんな風にしているのか聞いておけば良かった。

山形家の風呂場には、やたら手すりがいろんな場所にいろんな角度についていることは知っていたが、それぞれの手すりの役割まで分からない。美代子は車いすのまま風呂場で主人の背中を洗う程度と理解していて、入浴プロセスを頭の中でシミュレーションしていて湯船に入る時の介助が想像出来ない。

主人は上半身は健在だから両腕にも力が入るのだろう、そのために手すりが用意されていて、浴槽にも座れるように段差が設けてあったのを知っていた。男性の体は重いから自分が支えられるか心配だ。いろんなことが浮かんできてなんとなく憂鬱な気分になっていた。

自分でやるといったからには弱みを見せるわけにはいかない、でもどうしても行き詰まったら、SOSを発して美月の応援を呼ぶ覚悟を決めた。

しばらく自分の部屋でテレビのニュースを見てくつろいでいる時、主人の部屋との境のドアをノックする音がした。ドア近くに行くと主人が「あと十分位で風呂に入る準備が出来るから」とドア越しに声を掛けた。

「ハイ、分かりました」と応え美代子は自分も介助に都合がいいように半パンとTシャツに着替えた。美代子は戦闘モードに入って、いつでもOKな体制は取ったものの、不安になり心なしか体が硬くなっていた。

ドアをトントンとノックして主人の部屋に入り「じゃあ行きましょうか」と言い、車いすのハンドルを持って風呂場へ向かった。美代子は「軽いんですね」

「そうだよ、室内用は廊下の上を動かすからタイヤも細いんだよ」

悠真の体が不自由になったときにリフォームして、洗面所や風呂場も広くしてバリアフリーになっているから、車いすでの移動も室内のドアの開閉も軽く、一人での行動が安易な設計になっている。

風呂場で滑って事故でも起こらぬよう滑り止め仕様の床になっていて、さらに浴槽が半地下のように、出入りが容易な工夫がなされていた。美代子は自分が主人の入浴介助をすることなど、考えてもいなかったので、普段は気にも留めないで当たり前のように入浴していたことが恥ずかしく思った。

美代子は入浴用のバスローブを悠真が脱ぐのを手伝って風呂場に入った。

「悠真さん段取りについて指示してくださいね」

「分かったよ。先ず頭から洗うか。私用のシャンプーはそこの緑色のキャップのボトル、このシャンプーは弱酸性でボディにも使えるんだ。だから頭を洗いながら体もそのあぶくで洗うから便利なんだ」

「そうですか。私なんか三つも使い分けていますよ。頭、顔、ボディとね」

美代子は恐る恐る悠真の頭にシャンプーをかけて、洗い始めた。背中に洗剤を広げてタオルで広い悠真の背中をごしごしこすった。

「そんなに強くこすらなくてもいいよ。毎日風呂に入っているから、撫ぜるようでいいんだよ。体の前の方は自分で洗うから」

「分かりました。それでは頭をシャワーで流しますね」そう言いながら美代子はシャワーのホースを左手で軽く持ち水流を強にした。その時シャワーヘッドが水流に負けて向きを変えて美代子の上半身をびしょ濡れにしてしまった。驚いてヘッドをしっかり持ち向きを悠真の頭に当てて洗剤を流した。

一瞬の出来事で、美代子のTシャツがびしょ濡れになり、下半身の半パンまで水が浸みてしまった。見かねた悠真が「いっそのこと、そんなに濡れたんじゃ美代子も風呂に入ればいいよ」と衣服が濡れてしまった姿を見て面白がった。

「そうですね、悠真さんを湯船に入れたらそうします。でもちょっぴり恥ずかしいですね」と言い、照れ笑いでその場を繕った。

悠真を湯船に入れる介助は大きな体を背後から支えながら、浴槽の座る位置に移動させ、ふうっとため息をついて、思い切って濡れた衣服をその場で脱いで、湯の温度を少し高くしてシャワーを気持ち良さそうに浴びた。

悠真が「入浴介助を初めてやってみての感想はどう?」と聞いてきたがシャワーの音でよく聞こえなくてもう一度聞き直した。「何ですか?」

「入浴介助はどうだったか? と聞いたの」

「美月さんの御苦労が分かりました。感謝ですね」

「彼女は二十年のキャリアのベテランですよ。君は毎日続けられる?」

「考えてみます」

美代子は少しでも自分の裸の姿を悠真に見られたくないので、シャワーを頭からジャージャーとかけながら、自分には入浴介助は向いてないな、と悟った。そして照れ隠しのつもりで、「ここ一年、運動不足がたたってお腹に贅肉が付いてしまったわ。何とかしなくちゃね」と背後の悠真の視線を気にしながらお腹まわりにたっぷりの泡を作り独り言を言った。

浴槽の中から悠真が「時間がたっぷりあるんだからフィットネスクラブでも行ったらいいよ。近くではたまプラーザに“グリーンジム”があるよ。あそこは大手の会社が経営していて田園都市線沿線の奥様達に評判だよ」

「行ってみようかしら、週一なら大丈夫よね」

美代子は悠真の方から勧められたので、行動に移しやすかった。以前より興味があったがなんとなく遠慮して自ら言い出せなかった。普段何もしないで家の中ばかりで過ごしている自分が少し退屈になっていた。これまでは週一回のパステル画教室通いは友達の結衣にも会えるのでこれまでは唯一の息抜きになっていた。

※本記事は、2022年10月刊行の書籍『迷いながら揺れ動く女のこころ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。