壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事

(4)

ああこれで、待望の貯金ができる。ぎりぎりまで切りつめれば、月に銀一両くらいは、ため込むことができるのではないか?  いつか正戸(チャンフー)になれる機会にめぐまれるかもしれない。そうなったら、胸をはって、きょうだいに会える。

銀の力は、大したものだった。あたためていた胸中の絵が、色をおびて、動きはじめるのである。こんなにすばらしいものが、ほかにあろうか。

私は馬蹄の形をした、小さな銀のかたまりを、ふとんの中で抱いていた。ときどきそれをとり出しては、ながめて悦に入り、指先でなぞっては、ツルツルとやわらかい触感を愉しんだ。

「ここだ。ここが、徐繍(シュイシウ)が商売してたとこだよ」

屋台街の世話人が案内してくれたのは正陽門(せいようもん)外、南北を走る目抜き通りから、少しばかり西へ入った路地の一角であった。このあたりは北京随一の繁華街で、朝から、人でごった返している。

「あんたがあとを引き継ぐんだね。場所代は、月のはじめに払ってもらうよ」
「はい」
「いま、彼はどうしてるんだい?」
「やめました」
「そりゃまた、どうして」
「さあ」

脳裡にうつったのは、泪をこぼすまいと歯を食いしばった、徐繍(シュイシウ)の横顔であった。管姨(クァンイー)に行き先を訊いても「知らないよ」の一点張りである。

しまいには「やめちまった者のゆくえを詮索するひまがあったら、料理の味をよくするほうに頭を使いな、それがあんたの仕事だろ」と怒り出すしまつであった。世話人は、屋台に彫られた鯉(こい)の長ひげと、私の顔とを、交互に見くらべた。

「もったいない話だね。ここで商売やってる屋台のほとんどは個人か、零細商店主だから、そんな恩恵にはあずかれないよ。売り上げが多くなりゃあ羽振りもよくなるけど、そうでなきゃ、落ちぶれるしかない。商売ってえのはむずかしいよ、あんたも頑張りな。徐繍(シュイシウ)の麵は、この界隈じゃ評判だったから、あの味が出せりゃあ、大丈夫だろうよ」

となりは、おもちゃ屋である。店頭には蓮花燈(リエンホアドン)や兎児爺(トゥルイエ)などのほかに、虫やら鳥やらの入った竹かごをならべている。タテヨコ三尺ほどの鳥かごに入っているのは、ヒヨコである。

どこからか少年の一群がやって来て、のぞき込んではこれがいい、あれが太っている、と品評会がはじまった。おもちゃ屋のおやじは、きたない手で羽毛をよごされはしないかと、首をのばしている。目が合うと、おやじが話しかけて来た。

「あんた新顔だな。前はもっとひょろっとしたヤツが麵を売ってたけど、あいつはどうしたんだ? 徐繍(シュイシウ)とかいったっけな」
「やめました」
「そりゃあもったいねえなあ。漁門は給料もいいんだろ? おれたちみたいな零細商店主とはわけが違うわなあ」

世話人と同じことを言う。おやじはぐっと顔をよせて、声を落とした。

「あんたも黒戸(ヘイフー)か? 実は、おれもそうなんだ。執刀医に大金はらって痛いおもいをしてよう! これで宮廷に入って給料もらえるとぬか喜びしたら、一転このざまだ。ガキ相手の商売しながら、日銭をかせぐしかねえ。こうなるとわかってたら、なにもあんなにのたうちまわるこたァなかったんだよな。屋台を曳くのなら、男のままでいたほうがよかったぜ、そう思わねえか。

まあしかし、あんたはよかったな、すごい主人にやとわれてさ。はじめて漁覇翁(イーバーウェン)の長屋街を見たときゃ、度胆をぬかれたぜ。どこからともなくふいとあらわれて、たったの数年であそこまでのしたんだってな。漁覇翁(イーバーウェン)たあ、どんな人だ?」

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『花を、慕う』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。