第二章 研修医

昭和57年4月

死者の瞼の裏には、最後に見た光景が焼き付いていると何かで読んだことがある。それが本当なら、亡くなった患者の瞼の裏には、鬼のような形相をした自分の顔が刻まれているのだろうか? 患者を救おうと懸命に行った治療は何だったんだろう? 培ったと思っていた患者との関係は幻だったのだろうか? 答えの出ない疑問が梅澤を苦しめ続けた。

外が白んだころ、梅澤は一つの決心にたどり着いた。

「2度と膠原病の患者を死なせてはならない。そのために自分の全てを注いで膠原病に取り組む」

これまで何度となく、あの光景を思い出した。夜中に、びっしょり寝汗をかいて目が覚めたこともある。少しでも罪を償うつもりで、膠原病の研究に打ち込んだ。他の病院で治らなかった重い患者を担当してきた。あの日以来、梅澤が自分自身に課した重い十字架であった。

第三章 新任地

教授就任祝賀会 平成17年9月22日

京帝大学臨床免疫内科助教授

梅澤良平の北陵医科大学血液免疫内科学教授に就任が決まった。上司である三村教授と医局員が三条蹴上の老舗ホテルで祝賀会を開催してくれた。礼服を着込んだ梅澤は、受付を訪れる人々に丁寧にお礼を述べていた。その横に、着物に身を包んだ妻が控えていた。普段は気楽な服装の同僚が、この日ばかりは背広を着込んで、(しゃち)ほこばってお祝いの言葉をかけにきた。

記名を済ませた参列者が会場に入っていった。一人の紳士がエスカレーターで上がって来るのが見えた。素早く駆け寄って行く梅澤に妻が続いた。エスカレーターを上りきるのを待って、梅澤が挨拶した。

「居村先生、今日は遠い所をわざわざありがとうございます」

「梅澤君、おめでとう」

その紳士が、梅澤に温かく声をかけた。居村裕雄は、20年前に梅澤が膠原病の研究のために京帝大学第二内科に入局した時の主任教授である。当時、知名度や業績の面から、東大の高田教授と京大の居村教授が医学会の2大巨頭であった。その居村教授のもとで、梅澤は4年間の研究生活を送った。

厳しい毎日であったが、人生の中で最も充実していた期間でもあった。幾つかの論文を出した後、さらに研究を伸ばすために米国国立衛生研究所(NIH)と食品医薬品局(FDA)に留学した。世界最高の研究所で三年間、最先端の研究に携わった。帰国後、梅澤は医学博士号を申請した。その授与式が京帝大学会館で行われた。その時には、居村教授は京帝大学総長になっていた。