万里絵は三泊の予約しか取れていなかった。キャンセル待ち登録をしていたが、連絡がなかったのでフロントに寄ってみる。部屋の予約が続けて取れなければ、正午までにチェックアウトしなければならない。せっかく体が水に慣れてきて、泳ぎが楽しくなりそうな時だった。釣木沢さえ良ければ、このまま習い続けて、一キロとか二キロとか遠泳できるようになりたい。もし予約が無理なら年会費を払い込んでヘルスクラブの会員になり、万里絵がマンションから通う手段も考えてはいた。

「真梨邑先生ご紹介のお客様でしたね。同じ部屋で一月四日まで宿泊のご予約いただいておりましたよ。ご連絡差し上げていなかったでしょうか」

青いスカーフを首に結んだコンシェルジュが恭しく頭を下げる。

「大変、ご迷惑をおかけしました」

インターネット申し込みだった。慌ててスマホをチェックしてみると、昨日のうちにラインで連絡が届いていた。チェックを忘れていたのは万里絵の方だった。頭を下げて謝ったが、床に向いた顔は緩んでいて、小踊りしたい気持ちでプールに向かった。

「わたしの部屋をツインにする選択肢もありましたよ」

話を聞いた釣木沢が、真面目な顔で言ったので、万里絵は笑い出して冗談に済ませた。うぬぼれるわけにはいかない。清潔で美し過ぎる年下の男の社交辞令に期待など持ってはいけない。万里絵は逸りそうになる心持ちをおさえる。釣木沢はわずかに眉を動かしたが、万里絵が笑ったことでこの話は終わりになった。

「それはそうと、木賊さん。昨夜、考えていて思い出したのですが」

「なんでしょう?」

「小学校の時、父の勤務先が花巻市内の時期がありましてね。小学三年と四年の時、花巻北小に通いました。もしかして、木賊さんも北小ではなかったですか?」

「いいえ、わたしは花巻東小学校でした」

「ああ、そうでしたか」

釣木沢は右向きにゆっくり首を回した。

「既視感と言うのか……」

「はい」

「以前、どこかで木賊さんに会ったことがあるような気が抜けなくて」

それは万里絵も感じていたことだった。初めて丸の内の書店で会って以来、顔見知りだったような、どこかなつかしいような、釣木沢の言う既視感にとらわれていた。

「もしかしたら、同じ花巻市内の小学生だったのですもの。たとえば文化会館で催された市内合同の観劇会ですれ違っていたのかもしれませんよ」

「ああ、なるほど。それ、可能性がありますね」

「アンサンブルの音楽会とか、演劇を見る会とか、いろいろありましたね」

「そうか、幕間の休憩時間でトイレの前ですれ違っていたとか」

「多分、多分、会っていそう」

万里絵は笑いながら、本当にそうかもしれないと思っていた。

「木賊さんはどんな子供時代だったのかな」

釣木沢に続いて、水の中に入った。

【前回の記事を読む】食事付きのマンションのことを「パンション」と言うのか?

※本記事は、2022年4月刊行の書籍『わたしのSP』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。