当時銚子商では、野球部の部長が不在だった時期であり、「銚子商の教師」ではないと野球部部長になれないというルールがあった。そのため、別の人物を監督に添え、自身が部長に就任した時代があった。

ここについては詳しい資料がなく、取材をさせていただいた方々の記憶も、かなり前の事なので、定かではないという前提であるが、取材の中で少なくとも、昭和46~47年あたりで、「斎藤部長」の時代があり、この時代、「コーチ」は、銚子商に用務係として働いていた「篠原 保」という人物が、長らく務め、斎藤監督の右腕として日々選手の鍛錬のために働いた。

その時代、監督としてベンチにいたのは「篠原」コーチで、部長として斎藤一之がベンチに入っていたという。なお、篠原氏については、斎藤監督が監督に就任する前の昭和36年の第43回大会の夏の甲子園に出場した時の監督である(2回戦 銚子商1-2浪商)。

その27年間という監督、部長という時代を経て、斎藤監督はいわゆる「黒潮打線」と呼ばれるチーム作りをした。黒潮とは、別名「日本海流」と呼ばれる、日本近海で流れる代表的な暖流で、房総半島沖を東に流れ、その先には銚子市がある。この部分が、黒潮打線の名前のルーツであるという。

銚子商は、OBに後のプロでの打撃タイトル獲得者(昭和59、62年首位打者、昭和59年本塁打王)がいるため、どうしても「豪打」というイメージが付いたが、実は黒潮打線と銚子商野球部の強さは「緻密さ」だった。

当時プロで行っていたブロックサインを、銚子第一中学時代から取り入れた斎藤監督によるもので、それだけでなく、プレーそのものやベンチからの声のかけ方で相手を揺さぶり、隙をつく野球が銚子商の野球だった。

そのため、練習時間は非常に長くなり、現在における「あの時代の銚子商の強さを一言で言うと」という質問に対し、各OBが「練習量」と答えるきっかけになった。そのタイムスケジュールは、授業が終わる夕方17時あたりから21時まで練習を行い、その当時は茨城方面や旭市などから通っていた選手もいたため、メンバーによっては終電の時間に合わせ、練習を切り上げたりしていた。また、朝練があり、8時~ホームルームが始まるまでとされている。

また、夏の大会前になると合宿がある。合宿は学校内にある宿泊施設を使い、月~金まで行われ、土日は自宅へ帰るというスケジュールだった。夏の千葉県大会前の一か月の期間行われ、学校行事として秋季大会時期に行われる修学旅行については、スケジュールの問題で野球部員は「行けない」というのが通例だった。

※本記事は、2022年7月刊行の書籍『怪物退治の夏』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。