第3章 AI INFLUENCE

第3項 過程

1 茶碗蒸し÷テクノロジー

鋭い人はこう反論するだろう。

「私は料理なんて好きでないし、茶碗蒸しにわざわざ手間暇かけて作るほどの愛着もない。それでも例えば秋の夜更け、ふとした時にふっと茶碗蒸しが脳裏を過(よぎ)る事もある。

その時、“茶碗蒸しのもと”さえあれば、現状まぁ完璧な茶碗蒸しとは言いがたいが、現実にすぐに茶碗蒸しが食べられる。そして、茶碗蒸しの具材がたまたま家にあったとしても、“茶碗蒸しのもと”を用いればその準備・調理にかかるその小一時間を読書に当てながら、茶碗蒸しを食べることが出来るではないか。」

手軽にして堅実なるベネフィット。結果(目的)を得る事に利益があるものにテクノロジーを用いる事にはもちろん一定の合理性がある(ところで、将棋はどうだろうか。この点は後で考えるとして、先に進む)。

“茶碗蒸しのもと”の完成度が上がり、人間の料理した茶碗蒸しを凌駕するようになれば、誰もわざわざ茶碗蒸しを作ろうとはしなくなるだろう。“茶碗蒸しのもと”よりも美味しい茶碗蒸しを作ることの出来る者にとっては料理は楽しい作業だが、その域に達しない者にとっては料理はいたずらに手のかかる虚しい作業だ。

人工知能の発達とは、かかるテクノロジーが、判断の領域に及ぶという事だ。三つ星レストランのシェフを家に抱えていたら料理をしなくなるであろう様に、判断をすることは徒労に思われてしまうだろう。

茶碗蒸し÷テクノロジー=茶碗蒸しのもと→料理という過程の省略

判断÷テクノロジー=人工知能(判断のもと)→判断という過程の省略

個別の目的解決の判断力において人工知能のレベルは名人の域に達している。それは何時でも何処でも何度でも、私を分子に解体することで、私自身が誰であるかを問わず、私の替わりに、完璧な解を出してくれる。その替わりに、私は判断することをこの隙のないテクノロジーに委ね、私の向き合ってきた諸問題の解決の過程に、関心を払うことを忘れていく。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。