第3章 AI INFLUENCE

第3項 過程

1 茶碗蒸し÷テクノロジー

続いて、人工知能をテクノロジーの視点から考察してみたい。テクノロジーとは科学技術を意味し、人工知能も問題なくそこに含まれる。間断なく常に迫られる、我々の厄介な選択肢の数々。

その判断を新たなテクノロジーに委ね、実感として多くの物事が上手く運ぶようになる。それはつまりは判断を人工知能というテクノロジー(の一種)が解決するということだ。そもそもテクノロジーとは何だろう。

8九の桂馬が勢い誤って7六に跳ねてしまったりはしないのと同様に(言うまでもないことだが、桂馬はテクノロジーではない)、テクノロジーとは、誰が、いつ、何処で、何度やっても、同じ結果を導き出せるようにするものだ。「フロムA to B」の確かさがテクノロジーの存在意義だ。

村上春樹氏の小説『ねじまき鳥クロニクル』(第三部、「笠原メイの視点」)にとても面白い例えがある。以下はその引用。

「私たちは“茶碗蒸しのもと”を電子レンジに入れてチンしたから当然結果的に茶碗蒸しができたって思っている。だけどそれはただのスイソクに過ぎないと私は思う。」

悩める少女、笠原メイ以外の一般多数の人間にとり、当然の帰結と思えること。“茶碗蒸しのもと”をレンジでチンして茶碗蒸しが出来上がったときに、いちいち感動したり喜んだりしなくなったとき、初めてそのテクノロジーは人間の成果として人間の社会に定着したと言える。

笠原メイは、こうも言う。「“茶碗蒸しのもと”はみんなの知らないあいだに暗闇の中で一回マカロニ・グラタンに変身して、それからまたくるっと茶碗蒸しに戻っているかもしれないじゃない。」

テクノロジーが、必然と見紛うほどの確かさで結果を担保すると、人々はその過程に関心を払わなくなる。それはとても自然な事だ。レシピを決めて具材を用意したり、各具材の適量を秤で量ったり、それを然るべき順に器によそったり、適度な火加減と時間で蒸したり、そういった手間と失敗のリスクを省くために〝茶碗蒸しのもと〟を買うのだから。

リスクはない。葛藤もない。ゆえに感動もない。過程は背景ごとショートカットされる。新幹線が速すぎて誰も窓から外の風景をじっと眺めたりしないように。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。