2

周平の父は中学校を卒業すると東京の蒲田の鉄工所に就職した。しかし、都会になじめなかったのか、すぐにそこを辞めて富岡町に戻った。そして、すでに工事が始まっていた福島第一原発の工事人夫として働き、完成後は原発作業員になって部品の交換や除染などの保守作業に従事することになった。

その間、隣町の理容室で働く女性とお見合いをして結婚した。周平の母だ。ふたりは県から低利の融資を受けて大葉町に家も建てた。今左沢たちが立っている家だ。

この頃が、周平の家族がもっとも幸せだった時期といえるだろう。なぜなら、周平が中学三年生の春、父の肺に癌が見つかり、四ヶ月後にあっけなく死んでしまったのだ。

東日本原発の正社員ならともかく、協力会社の孫請けでは退職金もないに等しい。働き手を失った周平の家は一気に困窮した。卒業後の進路に迷っていた周平に、担任は東日本原発への就職を勧めた。東日本原発は帝国電力の子会社だが、帝国電力の百パーセント出資でできた会社で待遇は帝国電力と変わらないし、入社したら東京にある原技学園に入り、給料をもらいながら教育が受けられ、卒業すれば高卒の資格が得られる。希望すればイチエフで働くこともできる。

このことを担任は繰り返し言った。母親も望んでいたし、この土地では人気の進路でもあることから、周平は、東日本原発への就職の道を選び、上京した。そして三年後、希望どおりイチエフに配属され大葉町に戻った。ちょうど就職難の時代で、「正社員で、イチエフで働けるとは運がいい」、と周囲の人たちからずいぶんと羨ましがられたという。

「ところがその三年後、今から四年前のことですが、突然、東日本原発さ退職したそうです。婆さまも理由さわからんと言っていました」

「で、すぐに東京に出たのですか」

「いっとき家でぶらぶらしていたそうですが、六月の中頃、いわき市の友人さ会いに行くと言って出かけたきりで、音信不通になったそうです。おっかぁの葬式にも帰らなかったと、婆さまもずいぶんと怒っていました。母親は周平が家出した年の十一月さ急性の白血病でぽっくり死んだそうですが、まぁ住所さわかんねば、連絡の取りようもねぇですがね」

四年前の六月にこの地を出奔したのであれば、左沢が周平に出会ったのはちょうどその一年後ということになる。運送会社で働いていたと聞いていたが、住所も知らせていないところをみると、運送会社で働くようになるまでにきっと他人(ひと)に言えない紆余曲折があったに違いない。