ただ、そこで厄介なのは、言葉というものは、それ自体で或る種の価値を内包しているという事実だ。言語は科学ではなく情緒であって、意味を伴う。意味とは価値だ。だから、価値的に全き中立な言語表現というのは困難を極める。

例えば、言葉を持たない動物は、その内側に湧き上がる感情が快であるのか不快であるのか、良いことなのか悪いことなのかをわざわざ弁別したりしない。動物にとっての感情は生命そのものが発する衝動であって、内的なエネルギーの発露として一つの咆哮に集約される。そこに価値判断は無い。

だが、人間は違う。人間は言葉を持ったが為に自分が自分であることを認識し、己の抱く感情がいかなる意義と意味を持つのかということに絶えず執着する。

本来、意味的に中立でありそれ自体で一つであった世界は、言葉によって切り刻まれ、分類され、整理された。主語によって自己と他者を分離し、時制によって過去と未来が区別され、その間隙の薄皮一枚に「今」という不安定な観念を捻じ込んだ。そして、主客と前後関係に基づく因果律――作用と反作用の関係――によって自らの行為に絶え間なく意味と秩序を与え続ける。

言語によるあらゆる活動は本来的に事物の制限が目的であり、言語の本質は制約にある。そこには意味から遊離した独立事象は何一つ存在しない。全ての現象には原因があって、何らかの結果を生み、その結果が次の事象の原因となるという輪廻の輪。行為は原因であると同時に結果であって、それ以外にはなり得ない。この言語が持つ原理は、全てから解き放たれているべきはずの自由をも因果の鎖に取り込もうと企てる。

「死」もまた言葉だ。自己の死に具体性はない。僕たちは、自分の死を客観的事実と考えがちだが、それは多分間違いだ。それはただ、自らの認知機能の不可逆的な停止という現象に対して便宜的に与えられた観念に過ぎない。自分で自分の終焉は認識できないのだから、原初の人間に死というものは恐らく存在しなかった。それは、認識の外にあった。

死は、言葉を獲得した人間が、生のアンチテーゼとして、意図的にこの世界に持ち込んできた概念なのだ。死を拵えてしまったために、人間は終わることのない苦悩と絶望に囚われることになった。生存本能と死の発見は元来別のものであって、「自分が死ぬ」ということなどそもそも認識世界には存在し得ないのだ。自覚無き自家中毒。喜劇的な自作自演。人間は余計なことをする天才だ。

※本記事は、2022年7月刊行の書籍『羽ばたくことのない鳥たちへ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。