【前回の記事を読む】「この牛丼は五万円だ。」並盛の器の前でそうつぶやいたワケ

十一月二日(東京都杉並区)

自由は善悪の物差しで測るべきものではなく、ましてや、悪への使嗾(しそう)ではない。自由は、もっと鋭利で、透明で、何にも拠らず、ただそれだけで超然と屹立するものでなければならない。自由は何物にも従属しない。あらゆるものから自由であってこそ初めて自由であり得るのだ。

従って、自由の名のもとに為される悪は、行為主体がそれを悪と認識する限り、既に自由ではない。それは、ある行為を悪と措定する「価値」という名の不自由に縛られている。

人間存在の解放のために悪――僕は別に悪行にこだわっているわけじゃない。それは善行でも構わない――を為すというイデオロギーは、デカダンスにおける最大の自己矛盾だ。彼らは堕落による自由を謳いながら、善と悪という二元論が提示する価値観の間を行ったり来たりしている。彼らは堕ちながら、絶えず堕ちてゆく自分自身を意識し、そんな自分に向けられる慈悲深いまなざしを期待し続けている。

僕の目指す姿はそういうものではない。僕は同情や哀れみは求めない。自由とは善悪の彼岸にあって、あらゆる価値から超越してあるべきものなのだ。