日本への渡来は、王朝時代と言われ、朝鮮半島を経て伝来したものと推測されているが、天平七年(七三五年)に吉備真備(きびのまきび)(六九三~七七五年)が中国から持ち帰ったというのが通説となっている。ただし、持統天皇(六九〇年即位~六九七年退位)三年の時、碁と双六を禁じていたので、もっと早くから伝わっていた可能性もある。

また、正倉院には聖武天皇(七二四年即位~七四九年退位)愛用の碁盤も残されている。万葉集には、碁師という碁に秀でたもののことが出ているし、源氏物語の「竹河」の中にも、美しい姉妹が庭の桜の木を賭けて碁を打つくだりがある。

日本人の囲碁、双六、博打好きは、奈良朝以前からの伝統と言える。しかし、この時代、碁はあくまで貴族の遊戯であり、一般庶民の間で打たれた形跡は殆どない。わが国に残されている最古の棋譜(対局手順の記録)は、日蓮(一二二二~八二年)と日朗(一二四三〜一三二〇年)が打ったものと言われているが、初めに黒石を天元(碁盤中央にある星)に置き、その後四隅に白黒の石を置いて打ち始めている。

かくして王朝以来、約千年の歴史を経て、碁は益々隆盛の途を辿ることになる。特に戦国時代、信長、秀吉、家康など天下の武将もこよなく碁を愛したと伝えられている。当時は、碁を単なる遊戯として楽しむだけでなく、あらゆる軍略に用いたという。

真田一族など碁によって軍法学を習得したと言われている。天正十年(一五八二年)六月、折から京都本能寺に滞在していた織田信長は、家臣明智光秀の謀反によって自刃するが、その前夜自分の面前で打たれた、日海と利玄坊の碁の中に珍しく三劫(さんこう)ができたという有名な伝説がある。以来、碁で三劫ができると、不吉な出来事が起こると言われるようになった。

プロの碁でも、数万局に一回起こると言われているが、現在では規定上、無勝負となっている。

死に臨んで信長は「碁なりせば、劫なと打ちて生くべきを、死ぬるばかりは手もなかりけり」と言ったと伝えられていたが、後にこれは後述の日海の作と言われるようになった。

※本記事は、2022年10月刊行の書籍『冬の日の幻想』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。