「人は何のために生きているんだろうか」

とその時の自分としては切実な質問をしてみた。その時の友人の返答は、

「そんなことを考えているより、受験勉強をした方がいいんじゃないか」

というものだった。確かに受験勉強から逃げたい気持ちもあった。私が通っていた高校は、私は田舎の進学校と呼んでいたが、学業優秀な者もいれば、自分のようにそうでない者もいた。優秀な者と接することができたし、そんなに落ち込むこともなくて自分には合っていると思っていた。友人の多くは受験勉強に燃えていた。

私はこの高校に入る時、できたら野球部に入りたいと思っていた。私が小学生の時に甲子園に出場していた。しかも延長再試合をして勝ったり、優勝した高校といい勝負をしたりしていた。まさに私にとって憧れの高校だった。しかし、胃腸の調子は悪いままだった。野球をしたいができない。勉強にも身が入らない。燻っていたので取り留めのないことを考えていた。

高校の時から考えていた取り留めのないことは、その後も余裕がある時は考えたが、受験に就職にと現実の問題を考えることが多くなり、私の頭の隅に追いやられていた。久しぶりに「人生」について深く考えてみよう。私はそう思っていた。

私は六十歳に近づいていた。もうそんなにも時間が経っていたのかと思う。平均寿命が八十歳位と聞いたことがあったが、残り二十年位か。でもがんになってしまったので、もしかしたらすぐに死が訪れるかもしれない。人生は本当に短く儚い。若い頃は人生が果てしなく長く感じ、大変な仕事をしている時は、この苦しさはいったいいつまで続くのかと思ったことがあったのに、過ぎ去った時間はあまりにも短く、六十年間があっという間に感じてしまう。

そういえば時間のことで面白いことを思い出した。これも高校の時であるが、保健の授業であった。保健は大学受験の科目になっていないせいか、成績優秀者はかなり力を抜いていて、平然と居眠りをしている者もいた。教師も淡々と授業を進めていた。その時、時間についてある人物が考えた説を、少しだけ力を込めて説明し出した。

「主観的時間の長さは、客観的時間の長さの二乗に反比例する」

※本記事は、2022年6月刊行の書籍『がん宣告、そして伊豆へ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。