【前回の記事を読む】「あれだけの美人だ」と言われる女性に飛び出た“とんでもない噂”

第一章発端

命の洗濯……そんな言葉が頭に浮かびました。企業戦士として日々神経をすり減らしてきた私は、自分で思う以上に心身ともに疲弊していたのかもしれません。がむしゃらに働くだけではだめだ、仕事以外のいろいろな物事に触れて見聞を広げ、より器の大きい、懐の深い人間になって、一年後に本社に帰り咲くのだ。これから来る秋冬春夏の一年を、決して無駄には過ごすまい、絶対に実りある豊かな日々にしてみせる。

炎のように熱く燃えるものが体の奥から湧き上がってくるのを覚え、私はぶるっと武者震いをしました。

I(アイ)神立郡(かんだちぐん)(つき)(いし)

それが私の赴任した土地の名前です。

私は車でこの町に入ったのですが、町の中心には、住所と同名の「月ノ石」という駅がありました。珍しい無人駅です。

二台ある社用車のうちの一台を通勤と私用に使っていいということになり、他の従業員たちも自家用車あるいは自転車や徒歩で通勤していましたので、駅を使う者は身近には全くいませんでした。また観光などでこの土地を訪れる者もほとんどいませんから、無人駅もむべなるかなという感じでした。取引先への訪問にも社用車を使うので、メインの国道を通る時に国道と並行して走る単線に作られた小さな木造の駅舎をちらりと見かけるだけでした。

赴任した翌週は関係会社や取引先への挨拶回りに終始しました。主に所長の刑部(おさかべ)さんと回ったのですが、九月の第二週に入ったある日、所長の運転で近郊の取引先に向かう途中、いつもは全く人の気配のない月ノ石駅に、私は人影を見かけたのです。

「あれっ」

助手席の私が発した小さな感嘆詞に刑部所長も反応しました。

「なんだ、どうした」

その人影は一人の少女でした。遠目でしたからハッキリとした年格好はわかりません。が、制服のような紺色の上着とプリーツスカートをはいて、リュックを肩掛けにした様子、そしてすらりと長身ながらもまだ女性としての完成した体ではないその華きゃ奢しゃさから、中学生ではないかと私は思いました。

「いえ、あの駅から降りてくる人を初めて見たもので」

私の言葉に所長も軽く驚き、「月ノ石駅に人が?」と聞き返してきました。

「ええ、今中学生くらいの女の子が改札を出てくるのが見えたので。このあたりに中学校があるのですね。この時間なら遅刻だなぁ」

私の腕時計はすでに九時を回っています。

「中学校も小学校もこの付近にはないはずだがね。見間違いではないの?」

走る社用車の窓から私は駅を振り返りましたが、駅はすでに遠く後方に消え、少女の姿ももはや確認できない距離まで来てしまっていました。家に戻ってからも、今朝月ノ石駅で見た少女の姿がなぜか強く私の心に残りました。