第一章 伊都国と日向神話

3.「秦王国」から南九州に移住する秦の民

しかし協力的とはいえ、異文化の伝統を完全には打ち消すことができない隼人は、ときどき反抗する。その都度、移住した秦の民は、身の安全対策を講じなくてはならない。

隼人らが反抗する最大の理由は、689年の施行と伝わる飛鳥浄御原令や701年完成の大宝律令にあった。というのも、政治や財政の基盤として、律令を整備・運用し始めた文武天皇のころから、そのような反乱と鎮圧などの史料が頻出してくるからである。

ざっくばらんに言えば、それまでずっと政治権力からは自由に振る舞うことに慣れていた人々が、急に税金だの労働義務など、命令される立場になったのだ。それも我慢できる程度を超えていたのだろう。

そんな反抗の様子を、『続日本紀』(宇治谷孟)に語ってもらう。

文武天皇三年(六九九)十二月四日

太宰府に命じて三野(みの)(日向国児湯郡三納か)・稲積(大隅国桑原郡稲積)の二城を築かせた。

文武天皇四年(七〇〇)三月十五日

皇族・臣下たちに詔して大宝令(たいほうりょう)の読習を命じ、また律の条文を作成させた。

文武天皇四年(七〇〇)六月三日

薩摩(さつま)の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はつ)・衣評(えのこおり)の督(かみ)の衣君県(えのきみあがた)・同じく助督(すけ)の衣君弖自美(てじみ)、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人(くまひと)[肥後国玖磨(くま)郡の人]らが武器を持って、さきに朝廷から派遣された覔国使(くにまぎのつかい)の刑部真木(おさかべのまき)らをおどして、物を奪おうとした。そこで筑紫(ちくし)の惣領に勅を下して、犯罪の場合と同じように処罰させた。

文武天皇四年(七〇〇)六月十七日

浄大参(じょうだいさん)(正五位上相当)の刑部親王(おさかべのみこ)・直広壱(正四位下相当)の藤原朝臣不比等(ふひと)(中略)らに勅して、律令を選定させられた。その人々に対して、身分に応じて物を賜わった。

大宝二年(七〇二)八月一日

薩摩と多褹(たね)(種子島)は王化に服さず、政令に逆らっていたので、兵を遣わして征討し、戸口(戸数と人口:筆者注)を調査して常駐の官人を置いた。

大宝二年(七〇二)九月十四日

反抗した薩摩の隼人(はやと)を征討した軍士に、それぞれの功績に応じた勲位を授けた。

大宝二年(七〇二)十月三日

これより先、薩摩の隼人を征討する時、太宰府管内の九神社に祈祷した(中略)。唱更(しょうこう)(辺境を守る役)の国司ら〈分注。今の薩摩国の国司〉が言上した。「国内の要害の地に、柵を建て、守備兵を置いて守ろうと思います」と。これを許した。

和銅七年(七一四)三月十五日

隼人(はやと)[大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)国の住人]は道理に暗く荒々しく、法令にも従わない。よって豊前(ぶぜん)国の民二百戸を移住させて、統治に服するよう勧め導かせるようにした。

年号の前後関係から見ても、699年の三野(みの)・稲積の二城の構築や、702年の薩摩国司の提言による柵や守備兵の件は、714年の豊前移住民(秦の民)を守備するものではない。それ以前の移民を対象にして、彼らが安全に暮らせるよう配慮した措置である。

要約すれば、それ以前の移民は第一次、714年は第二次の移住であることが分かる。第一次は狗奴国包囲作戦にともなうものであり、第二次は隼人教導のためである。ともに秦氏の関係者が移動させられたのである。

このへんの事情は、前出『続 秦氏の研究』(大和岩雄/大和書房・2013年)から学習できる。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。