私は浅黒い、まだ夏の匂いのする青年に見惚れていた。胸のドキドキを悟られないように、彼に労いの言葉をかけた。

「もう大丈夫よ。汗びっしょりで、暑かったでしょう。冷たい麦茶持って来るから、飲んでいってちょうだい」

少しの恐怖心はあるものの、このまま彼を帰してしまうのは、惜しいと思った。なにしろ人と話すのも、約二か月ぶりなのだ。彼は人懐こい笑顔を向ける。

「はい、それでは遠慮なく。あっ、その前に手を洗わせていただけますか?」

私はタオルを取りに家の中に走った。タオルを持って出てくると、青年は庭の洗い場で水を被ったようで、頭からずぶ濡れだった。

「あら、気がつかなくて、ごめんなさい。大きいタオルのほうがよかったかしら」

「いえ、そんなに濡れてませんから。まだ暑いので、放っておけば乾きますよ」

私の息子は神経質で、こんなときはシャワーを浴びて衣類を全部取り替えただろう。娘に至っては、台風のあとの庭の始末を頼んだら、あからさまに顔をしかめて、「えー! お母さんやってよ。私汚れるの嫌だわ」と、手も貸してくれないだろうと、私たち親子の今の関係を表す光景が頭をよぎった。

庭にある小さなテラスで、トレーに乗せた冷たい麦茶と焼き菓子を出した。彼はのどを鳴らして麦茶を飲み、お代わりして、それも瞬く間に飲んでしまった。麦茶の大きなボトルを空にして、申し訳なさそうに言う。

「あっ、奥さんの分まで飲んでしまいましたね、すみません」

「いいのよ、私一人じゃほとんど減らなくて、二日経つと捨てているんだから」

彼の飾らない人懐こさが、私の警戒心を解いていた。気がつくと、戸建ての家で一人暮らしをしていることと、子どもはそれぞれ所帯を持って離れて暮らしていることを話してしまっていた。

「あの、お礼にいくらか」と言いかけたが、私の言葉が聞こえなかったように、彼は名刺を差し出した。名刺には「なんでも便利センター 坂本曜」と書いてあった。この日の作業代は、請求されなかった。

タダほど高いものはない。私はこのあと、身に染みて思い知ることになる。

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※本記事は、2021年10月刊行の書籍『泥の中で咲け』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。