第三章 井の中の蛙井の中も知らず

キリスト教の訓読は可能か

世界の行き着く先がいわゆるグローバル化、オー・ベー・カという歴史的必然にあるとすれば、日本とてまた同じです。その欧米化をもたらした出力装置が、日本人の漢意という精神構造にあり、その働きがあったればこそというのは前述の通りです。その目的が換骨奪胎を旨とする異文化の翻訳、即ち漢文の「訓読」にあったことも日本の歴史が証明する通りでしかしそのような歴史「認識」こそ後知恵に他ならず、今頃になってなしうる一つの解釈にしかすぎないということです。

上代の日本人たちが漢文を訓読して「日本語」というものを確立し、それによって自分たちは「日本人」であるという意識を築き、「日本国」の建国まで成し遂げたのは歴史的な事実です。しかし全ては結果的にそうなったにすぎません。何のための訓読か、その「目的」は何かということを考えてから始めた事業ではないからです。強いて言うならば自分たちの言葉、即ち「日本の心」を奪われまいとする、やむにやまれぬ覚悟であり、異文化の中に呑み込まれないための唯一の方法論だったのかもしれません。

吉田松陰も辞世の句に曰く「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」。土方歳三また曰く「たとひ身は 蝦夷の島根に朽ちるとも 魂は東の君やまもらん」。土台、漢意というものはそれが起動しているうちは、決して本人たちの意識にも上らないのが日本人「の」漢意なのです。この漢意という問題に気づき、日本人でありながら日本人とは何者かと言い始めたのが、かの本居宣長です。

しかし、それは優に千年の時を経た後での、日本人という「物語」に対する覚醒だったのです。その本居宣長にしろ、彼の研鑽を引き継いでライフ・ワークとした小林秀雄氏にしろ、歴史問題の究極の意味というものはこれを統べ治めておられる創造主を思索の中心に据えなければ、たといどんな示唆に富む成果を引き出すことができたとしても、それは人間のアイデアでしかありません。つまりは歴史オタクの好奇心を満足させる過去への郷愁や事後的説明でしかなく、将来への希望を担保できるような話にはならないからです。

歴史を始められた御方、これを完結することができる創造主の言葉、「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示22:13)と語る神に、日本人のクリスチャンこそが尋ねるべきではなかったでしょうか。ですから歴史を始められた神に、日本人「の」漢意に託されたその役割は潰えてしまったのですかと、問うてみなければなりません。

歴史を完結なさろうとする創造主のシナリオの中に、もしも日本人の漢意というものが「黒子」として組み込まれ、しかも重大な役割を担わされていたとすれば、今回ばかりはいつもの無念無想では済みません。過去と現在が連続しているように、そしてそれが未来にもつながっているように、「日本人への福音」とは何かという神学問題と、「日本」とは何かという歴史哲学の問題もまた、メビウスの輪のように表裏一体の関係ではなかったかということです。日本人のクリスチャンこそ、否、キリスト者となった日本人こそが真にそのあり方を創造主である神に尋ね、その責務を果たさなければならないからです。

「キリスト教」の宣教師ではなく、「福音」の語り部であったパウロが曰く、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、─私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、─律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」(Ⅰコリント9:19~23)。

ならば日本人のクリスチャンたちこそが、真の日本人でなければならないはずです。

※本記事は、2019年7月刊行の書籍『西洋キリスト教という「宗教」の終焉』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。