これを表したエピソードでは、ある学校との練習試合に負けると、次の週にはその負けた相手に再戦を申し込み、すぐに相手のグランドに遠征に向かっていたという。

また、斎藤監督も人の親である。後に「親子鷹」として、同じ時期に注目された、東海大相模高校の原貢監督と、原辰徳氏(現読売ジャイアンツ監督)同様、斎藤監督も息子斎藤俊之氏との親子鷹が実現。俊之氏は銚子商野球部の主力選手として活躍し、昭和51年夏、そして主将として昭和52年春と、2度の甲子園出場を果たしているが、この時、息子俊之氏が、地元の「英雄」である父の下で野球をするか非常に迷っていたことが、『日刊スポーツ』のコラムで紹介されている。

このコラムは、甲子園100回大会の記念として、『日刊スポーツ』のweb版「夏100回大会へ高校野球大河連載」(2018年6月7日)の記事で、各都道府県でのエピソードを紹介する方式でコラムの連載をしていたが、千葉でのエピソード紹介で、「銚子商・斎藤逃げなかった親子鷹」という題材で紹介されている。その内容は、俊之氏が、中3の時、銚子商への憧れはあったが、「監督の息子」という重圧にさらされることは、想像に難しくなく、同じ市内にあるライバル校、市立銚子に進むことを父、一之に伝える。

その時の親子の会話で、

一之「野球はやるのか?」

俊之「やるよ」

一之「何で、うちでやらないんだ?」

俊之「一緒にやりたくないんだ」

というやりとりの後、一晩考えることを告げられ、俊之氏の頭には、やはり銚子商への憧れや、選手として期待をしていた、という父からの言葉に揺れ、結果として、銚子商への進学を決める。この時、

「男が1日で決めたことをくつがえすな」

「3年間は親子じゃないから」

と告げられたものの、どこか嬉しそうな表情を見せていたことを紹介している。

写真を拡大 甲子園ベンチ前の斎藤監督(右)  
 
※本記事は、2022年7月刊行の書籍『怪物退治の夏』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。