その頃から沖先生の求道心は各種宗教と治療法の勉強に向かいました。終戦後、平和活動家を志して禅門に入り永平寺などで修行されました。1951年終戦の6年後にはユネスコの平和建設国際奉仕団の日本代表としてインドに向かわれます。そこで、『らい病』に苦しむインドの方々のために『らい病院』を作る必要を感じて奮闘されますが、なかなか現地のインド人の協力が得られなかったようです。

そんな中ある日、沖先生は『らい病者』の方のその膿を啜ると言う行動に出られるのです。これにはインドの現地の人々も驚いたようで、やっと重い腰を上げて『らい病院』の建設に協力し始めたと言う事です。インドでは『らい病』は特に恐れられており、よもやその病の膿を啜るなどと言う行為をする人間が出てくるとは思いもよらなかったことでしょう。

しかしその若き沖青年の行為を見ていた人物がいました。(実際に見ていたのか聞いて知ったのかはわかりませんが)それが日本の食養家の桜沢如一先生だったのです。その時沖先生にほれ込んだ桜沢先生は、沖先生に

「日本に帰ったら私の仕事を是非手伝ってほしい」

と頼まれました。その頃桜沢先生は食養をマクロビオティックと言う名で日本の食事(玄米)を中心とした陰陽哲学に基づく平和運動・人間改造運動を世界に広めようとしていたのです。桜沢先生は

「自分は世界に広める仕事と活動に行かなければならないから、東京の食養会の組織の道場長をしてほしい」

と沖先生に託し、それを受けて沖先生は帰国後、日本CIの前身の組織であるMIの道場長として2年近く組織の立て直しに奮闘されることになります。

ですから沖ヨガと言われるヨガの中に食養の陰陽哲学がしっかり入っているのは当然といえます。中村天風先生とのご縁は少年時代からの記載がありますから、沖先生が、日本に初めてラジャヨガを入れた中村天風による「天風会」で勉強されていたことは確かです。沖先生がインドでヨガを随分研究されたのも天風先生の影響でしょうか。ともかく戦後も天風先生のところに行かれたようです。

当然に天風会でも頭角を現しますが、天風先生は

「君は天風会としてやるよりもヨガと言う方向でやっていた方が良い」

と沖先生に言われたようです。そして沖先生が31歳の時に「ヨガ」と言う名で、大塚の土地で普及を始めたそうです。教壇はミカン箱だったと言います。ほとんど収入がなく、食べることも満足に出来ずに線路の横の雑草を拾い集めて食いつなぐような厳しい生活を続けられたようです。そのような地を這うような活動を続ける中、沖 正弘の名前は徐々に広がっていきました。

1958年、沖先生37歳の時に日本ヨガ協会とヨガ行法哲学研修会が設立され、各地で本格的な講習会が行われていくようになったようです。とりわけブラジルで開かれた世界ヨガ大会では、現地の男性に請われるままに失明者を治します。このことがヨガ大会を通して広まり、大変な反響で毎日並ぶ治療希望者を、連れて行った13人のお弟子方の協力で応対したと言います。世界に沖 正弘の名前が広がっていきました。

1960年以降は招かれて西欧各地に東洋哲学と医学の講習に奔走されるようになるのです。そして全国に及ばず全世界に沖ヨガの支部が続々と設立されることになります。