【前回の記事を読む】建築学の国際会議に出席を決意!けど、何をする会議か分からない!?

Ⅰ ヨーロッパ

(三) ロンドンヘ

初めての外国地ナホトカは活気のない陰気な所だった。岸壁近くにクレーンが乱立していて、後方の街の姿は定かでなかった。私はソビエトはヨーロッパへの通過点に過ぎないという気持ちが強かったから、別にナホトカがどんな街であるかはあまり興味がなかった。

それでも日本を飛び出して初めて異国の地を目にするのは、それなりの気持ちの高まりが湧いてくるのではないかと想像していたのだが、それは拍子抜けするように何の感慨も起こらない出会いだった。よく憶えていないがそこで1泊したのだろうか、我々は汽車でハバロフスクヘ向かった。

車内食で出たボルシチをすすり、硬いライ麦パンをかじりながら、ひたすら続く無味乾燥な平らな車窓の景色を見つめて過ごした。実はこの旅程はすべて前もって決められていて、我々は常にロシア人の引率者の管理下にあった。船に乗った時点でパスポートを預けさせられて、それが返されたのは出国時のことだった。

ハバロフスクで1泊したはずだが、この街の印象は今ほとんど残っていない。ハバロフスクから我々は飛行機でモスクワヘ向かった。同行の日本人の何人かはシベリア鉄道で行くのでここで別れた。エアロフロートと呼ばれていたその飛行機には、我々日本人の他にも多くのロシア人が乗っていた。結構大きなジェット機であったが、機内は蒸し暑く、サービスは零であった。

日本人の誰かが窓から写真を撮ったようで、それをロシア人の乗客が見て搭乗員を呼んで、カメラを取り上げられそうになるという一悶着があった。フィルムは抜き取られたはずだ。日本で聞いてはいたが我々は今、そういう国にいるのだと改めて思い知らされた。

当時のソビエトはフルシチョフ時代で、61、62年に起こった、ベルリンの壁建設やキューバ危機の影響で、ケネディのアメリカと鋭く対立していた。しかし私はソビエトの共産主義にも、その当時のその国の政治事情にもさして関心も知識もなかったから、ソビエトの実情を見てやろうという気構えは別になかった。