第1章 山心の黎明期

【高崎観音山】虫からもらった生きる力 ~1959年2月(22歳)~

落ち葉が友だち

留年決定後、初めて実家に帰るときがきた。電車が高崎駅に近づいてくると、車窓からは右に赤城山が、左に榛名山が見えた。

あるとき、畑で母が、

「おめえは、赤城と榛名はどっちが好きだい?」

と私に聞いてきたことがあった。私は国定忠治の歌にも歌われている赤城が好きだと言うと、

「母ちゃんは峰がたくさんある榛名が好きだよ」

と言った。

手ぬぐいで頬かむりをして麦を踏んだ、あの寒い日のことをふと思い出した。

実家には高崎駅前から前橋駅前行きのバスに乗って帰るが、駅に来たバスを見送った。乗ってしまえば実家の近くまで行ってしまう。また次のバスがきて乗ってみたが、すぐに降りてしまった。大好きな爺ちゃんと婆ちゃんや、父母、兄のいる我が家に帰る勇気が湧いてこないのだ。

何台かバスを見送ってから(俺はどこにも行けないんだ。どうしても家族のいる家に行かなければダメなんだ)と、自分の心に鞭を打ってようやくバスに乗り込んだ。

一度ふんぎりがつくと、そこからは実家まで迷うことなく行くことができた。家に着いてなかに入ると、縁側に座って庭先の牛小屋を見つめている父がいた。その父の後ろ姿が急に年とったように見えた。

父は私に何も言わず、そのまま黙って田んぼに出て行った。

私は二階に上がった。自分の部屋の机に両肘をついて、ただボーっとしていた。すると母が階段を上がってきた。

「おめえ、短気起こして死ぬなんて考えるんじゃねえよ! 3年も5年も病気で入院している人だっているんだから。1年ぐれえ遅れたってなんだ。気でっかくもて!」

私は、この母の声で、堰を切ったように涙が出た。机の上が涙でびしょびしょになるほどに……。

(でも、かあちゃん……。俺、何年かかっても4年になれねえかもしれねえんだよ)

こうして2度目の大学3年生になった私は、落とした1科目の講義を受けるために、1週間に2回だけ90分授業を受ける生活を送った。お金のかかる寮生活はやめて、再び実家から池袋の大学まで通うことになった。

通学時間は各停で片道3時間半。自転車を入れると4時間。そして、自分にもわかるような抽象代数学の本はないかと、ずいぶん探していろいろ読み漁った。

自由な時間も多かったので、井上靖などの小説を読んだ。この人の文章は読みやすいので、読んでいるうちに自分にも何か書けそうな気がして、自殺しようとしている人間の気持ちを毎日のように書いていた。文章を書くことが好きになったのは、このころだ。

そして、このころの私は日曜日になると気晴らしに自転車で遠出をした。高崎の観音山へ向かうことが多かった。

高崎観音からは、関東平野が一望できる。下には高崎。すぐ先が前橋。その向こうが渋川。家が米粒みたいに見えた。たくさんの人間があの家のなかで、喜怒哀楽を感じながら暮らしている。こんな風景を見ていると、

(人間なんてちっぽけなものだ。大した違いはない)

そう思えた。