破門 柘植(つげ)(とら)次郎(じろう)

中学三年の夏は受験勉強の夏。学校の宿題は驚くほど少なくなり、その分、ほとんどの同級生が夏期講習や自宅学習に勤しんでいる。そうあるべき夏に、俺は生ける屍になっていた。飼い馴らすのにあれほど苦労した「虎」さえどこかへ消えてしまった。高校なんてどこでも同じと粋がって、ろくろく勉強しないうちに夏休みが終わってしまった。

道場にも行かなくなった。勉強しないことよりも竹刀を握らないことを心配する母には「大丈夫」と返事をしておいた。家族に対しても口数の少ない俺ではあったが、口にしたことは必ず実行してきたので、母は何も言わなくなった。

強い剣道部がある私立高校を勧めてくれた川鍋先生には素直に感謝している。だが、推薦を丁重に断り、二学期の成績と自転車で通えるという理由で都立秋倉高校を受験した。積極的な進路選択ではなかったが、合格して進路が決まり、受験の重苦しい空気から解放されるとそれなりに嬉しかったし安堵もした。

卒業まで残りわずか。ふと見上げた夜空にオリオン座が輝いていた。ありきたりだが、宇宙の広さに比べたら自分の悩みがちっぽけに思えた。自分でも不思議なくらい心が凪いでいた。

あの試合を思い返せばやっぱり悔しい。でも、それはそれ、これはこれと割り切れる余裕ができていた。何もかもが遠い過去のことのようだった。審判なんて関係ない。試合の結果もどうでもいい。勝敗は戦った二人のもの。当人同士がわかっていればそれでいい。あの試合に負けたせいではなく、あの試合に負けたおかげでそう思えるようになった。いや、以前の自分に戻れたというべきか。

こんなに長く竹刀を握らなかったことはない。そのせいか、強い相手と戦いたいという気持ちが以前より強くなっていた。高校でも剣道を続けよう。強い相手と戦えるように、これまで以上に精進しよう。そう決めたら無性に有紀に会いたくなった。会って話がしたかった。

卒業式の前日、有紀を図書館に呼び出した。

「あのとき、ここで言われたことの意味がやっとわかったよ。ありがとう」

「よかった。元気でね」

弾けるような笑顔で差し出してくれた小さな右手を優しく包むように握手した。俺は、君の笑顔が好きだった。

久し振りに握った竹刀の(つか)(がわ)がしっくりと手に馴染んだ。一足一刀の間合いで対峙したときの、ひりひりと焼け付くような緊張感が心地よい。無理やりやらされてきたのではない。「虎」をなだめるために仕方なくやってきた訳でもない。この緊張感が好きだから続けてきたのだと思い出した。

しかし、想像以上に体が鈍っていて、緊張感を楽しむまでには至らなかった。先輩から「猫次郎」なんてありがたくない渾名(あだな)を頂戴してしまったが、やはり道場こそが自分の居場所と思えた。平日は仕事や学校があるので、町道場の稽古は夜しかやらない。