【前回の記事を読む】嫉妬、妬み、嫉み、僻み、やっかみ…好きになれない日本語がある

庶民目線で庶民史観というようなものを語ってみようじゃないか

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ファシストや共産主義者が専横を振るおうと、なまじ理想だの主義だのを口にしなければ、人々はそれなりに幸せに生きられる。いつものように、身についた「諦め」と独裁・専制と上手く付き合う能力があるからである。はらわたが煮えくり返ろうが、専横打倒には、命を張らねばならない。もし勝っても、しばらくは混乱が続き、我慢の日々を覚悟しなければならない。

シュールレアリストの有名画家が、スペイン・ファシズムの下でも幸せがあり得る旨の発言をして、当時世界中から叩かれたことがあった。政治的でない発言なら正しいのであるが、当時の世界情況がそれを許さなかったのである。

陽は昇り陽は沈む。慈雨があり優しい風も吹く。実りの秋があり、どれもそれなりに美味しい。庶民の生活は大半を政治に「浸食」されてはいないので、人々は、限りある「一回限り」を巧みに生きる。それがいい。

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美しいという、どうしようもない「一般性」が私は好きだ。いつでも、どこでも、誰にでも、この訪問者は突然来訪する。そして何もなかったように去ってゆく。名もなきヒーローである。

自然界の表情にも、人の表情・立ち振る舞い・思いやりに、誰にでも不図感ずる「あれ」である。そう、「あれ」である。そのときその瞬間、「ああ」と思えるもの、「美しい」と直感できるもの、がそれである。

美しさは、差別も区別もしない。平等な一般性として、立ち現れる。平等の権化でもある。これさえあれば、この感覚が持てれば、庶民は庶民として何とか生きられる。あなたは、自然界・人間界のなかで、この小さな宝石を何個くらい持っているか。

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「〇〇である」型人間という、世俗現実を断定により整理し乗り切るタイプに対し、「〇〇ではない」型人間という生き方も許される。「〇〇でない」は、「〇〇である」以外すべてを包含し、「〇〇であるかもしれない」ないし「〇〇でないかもしれない」という幅広い裾野を持っている。「〇〇でない」を生きるのは、「〇〇である」を生きるよりも気楽ではるかに大きく深く生きられる。

もし社会の入り口で苦しかったら、私のように文学と哲学で何とか乗り切るのも一法であるが、質も量もはるかに大きく広い「〇〇でない」生き方や考え方を選択してみることを、60代の老婆(爺)心ながらお勧めしたい。

人文上あるいは人間社会上において、真理というものがあるとすれば、諸物間の関係の気配を察知し、それを生かすベクトル感、方向感覚を持つことの総体のなかにあると言えよう。従って、それは、政・官・産・学から唱えられる「である」という積極性ではなく、誤りの発見者・敗北者・無用少数者等の側からあぶり出される「ではない」という消極性を、しばしば持つことになる。

「〇〇ではない」ことを気配として感ずる能力に長けている系譜の日本人なら、「併存管理能力」として、日本社会が強いる同調圧力・忖度・横並びに代わる能力として生かすことができそうである。庶民の私にもあなたにも可能である。