いずれにしても、日本は、長い間、そのような前例がなく発明などには縁遠かったのです。日本に特許制度ができたのは、一八八五年(明治一八年)で、この特許制度だけとっても、日本はイギリスに二五〇年の差をつけられていました。

アメリカは一七八七年、アメリカ合衆国憲法第一章第八節には、「科学や有益な芸術を振興するため、著作権や発見に関して一定の期限、著作者や発明者に排他的権利を与える権限を議会は有する」と発明や著作物を保護することをうたっています。これを受けてアメリカに特許制度が設けられたのは一七九〇年でした。やはり、日本より一〇〇年早かったのです。

憲法で創造性の尊重をうたっている国は、アメリカのほかにどこもないでしょう。このアメリカ合衆国憲法の草案を書いたのは、後に第三代大統領となるジェファーソンで、彼はすでにいくつかの特許を取っていましたから、創造性を重要視し、憲法にも書き込んだのです。

このように日本は欧米に大きく遅れていたので、明治以降は、まず、欧米に追いつけという時代であり、創造性を発揮するよりは欧米から技術や産業を導入することが急務でした。欧米に早く追いつくには、その技術を模倣する方が経費もかからず、安易で、しかも確実でさえありました(もちろん、特許料は払ってのことですが)。ただひたすらその技術を取り入れ、がむしゃらに働けばよかったのです。

その後の日本産業の発展に最も貢献し、五〇〇もの企業の創設に関わった渋沢栄一も、もっぱら欧米の企業・産業のお手本があり、それの導入を奨励していたのです。そこには、ほとんど創造性を発揮する必要性はありませんでした(技術を日本に向くように改良することは日本人はうまいと言われてきました。ずっとやっていてそうなったのです)。

これがやがて、産業を起こすには創造性を発揮しなくてよい、発揮しなくても産業は起こせるという風潮を生んでしまいました。

※本記事は、2022年4月刊行の書籍『劇症型地球温暖化の危機 太陽光エネルギー革命で日本を再生する』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。