【前回の記事を読む】「江川キラー」と呼ばれた青野達也は何本のヒットを打ったのか

1.歴史的大敗からの「怪物退治」へ

次の対戦は、昭和48年の4月29日。この日は当時の天皇誕生日で、銚子商は、作新学院のグランドに遠征。敵地でのダブルヘッダー(練習試合)に臨むが、1戦目で江川と対戦し3-2で銚子商が負け。だがここで特筆すべきことがあった。

この試合では、2番打者として出場していた、斎藤監督が待ち焦がれ、銚子商に入学した天才打者、篠塚が怪物江川からヒットを放っていた。2戦目は作新側の控えの大橋康延投手(作新-大洋)が投げたが、この試合も2-0と銚子商が完封負けを喫した。そして、3度目が昭和48年の春季大会の関東大会の準決勝で、銚子商はこの時、5安打9奪三振を喫し5-1で試合を落としている。

だが、明らかに三振の数が減少している事と、秋季大会では1安打だったものが、5安打と確実に怪物江川に「近づいている」と実感していた。

そして昭和48年の夏の甲子園大会。斎藤監督、そして選手にとって「怪物」と相まみえるのは4度目となり、怪物にとっても3年生で最後の夏だった。先の春のセンバツでの初戦敗退。しかも歴史的な大敗北の雪辱に燃えたこの時の夏だった。

この時、銚子商と斎藤監督は、時間をかけて江川対策を講じてきた。ただ、何万といる高校球児の中で、当たるかどうかわからない一人の大投手を意識して、日々の練習を行うというのも、一般の人々からしてみればその思惑は計り知れない。しかし、当時の様子を聞くと、斎藤監督だけではなく、選手たちも必ず怪物と当たることを予感していたという。その結果として、この昭和48年の夏の2回戦において、作新学院とは5度の対決、怪物江川との対戦は実に4回目ということだった。

実は後日談があり、この江川に初めて勝った夏の甲子園の後に行われた同じ年の国体。この時銚子商の地元、銚子市で行われた国体でも「5度目」となる対決を銚子商ナインは経験しており、この時も銚子商は作新に勝利している。

この時期に、唯一銚子商が作新と当たっていないのが、「大敗」した春のセンバツという事になる。だからこそだが、あのセンバツでの大敗は大きに意味があったと、当時グランドで江川投手と対戦した元選手は語った。