八十五歳の女性斉藤やえは自宅で独り暮らしであった。やえの家は閑静な住宅街の細い路地の奥にある、いつも晩秋の()()が空から舞い落ちて来て家を包んでいる光景を見るような、小さな木造家屋であった。数年前に夫は他界し子はなかった。やえはひっそりと暮らしていた。

しかしやえの認知症が進行していた。朝夕ヘルパーが入り食事をつくり、近所で米屋を営む初老の中村も彼女を心配し声をかけ、やえも中村だけを信頼し何かあると「お米屋さんに相談する」と言っていた。彼女には運送会社に勤めていた夫の遺族年金が入っていたが生活を維持できるぎりぎりの金額だった。彼女は近くの銀行に数百万円の預金があったが、通帳をよく紛失することと、これまで悪質な訪問販売の餌食となっていたのである。

このようなことがたび重なり、彼女の通帳は米屋の中村が保管することになる。やえの夫は四千数百万円の預金と自宅不動産を遺して他界したが、やえは夫の遺した預金を使うこともできなかった。まだ相続手続きができていなかったからである。

彼女の生活は月日の経過とともに追いつめられていく。預金ももうすぐゼロになろうとしていた。しかし、彼女を助けてくれる親族は、誰もいない……。やえのケアマネージャーからの情報で、やえが居住する区の高齢福祉課の担当者と福祉関係者の三名が彦坂の狭い事務所に来所し、彼にこの問題の解決策を求めた。

彦坂は家庭裁判所でやえのために後見人を選任してもらうしか方法がないと回答した。二ヶ月後、区長の申立てで彦坂が後見人に選任されることになった。彦坂は物盗られ妄想が強いやえのもとにケアマネージャーとともに出向き、彼女にとって必要な問題の解決に着手した。

やえが訪問販売による消費者被害に遭いやすいことから、やえの同意を得て玄関の扉に「セールスの方は司法書士彦坂一郎へご連絡ください」という貼り紙をした。このことでやえの財産を(むさぼ)り尽くそうとする悪質業者の訪問は激減したが、それでも彼女のもとに来る業者はいた。それはいちど悪質業者に引っかかったことで裏世界で流通している「カモ名簿」に載ってしまっていたからであった。

彦坂はやえがしてしまった無駄な商品購入の契約を取り消す内容証明郵便を次々と出すことになる。後見人の彦坂は米屋の中村からやえの通帳の引き渡しを受けた。その際、今後も彼女のことを見守ってほしい、何かあったときには自分に電話してくださいと頼み、昔かたぎの中村もこれを快諾した。

やえの夫の遺産相続には一年近くかかった。彦坂が相続人を調査した結果、複雑な家系であった夫には甥姪が十六人もいることが判明した。彼女にしてみればこれまで一度も会ったことのない、名前も知らない十六名が彼女とともに遺産の共同相続人であったが、この十六名にとっては棚ぼたの相続であった。

彦坂の交渉によって六名は自分の相続分を無償でやえに譲渡してくれたが、十名は相続権を主張した。見も知らぬ甥姪のなかには精神異常者と思われる男もいた。男はやえに会いに行ってやえから法定相続分以上の財産をもらうことが自分の正当な権利であるという、訳のわからぬ主張を電話で喚き彦坂に伝えた。彦坂は家庭裁判所に遺産分割調停を申立て、この狂っている相続人を含む十名の甥姪に、遺産からいくばくかの金員を支払うことで決着した。

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